44 大海を知らない少女 目の前を歩く広い背中を追って歩くこと数刻。今は人気の無い寺の境内で向かい合っている。この人が何の目的で来たのかは全く検討も付かないが、風間さんと一緒ではない事が物凄く珍しい。
出方を考えている私に対し、赤い鬼は口を開いた。静かな、涼しい秋の夜の風の様な声だった。
「急に連れ出して申し訳在りません。この度、椎名紗良さんに折り入って御話が在ります」
「……俺に、何の用が」
「風間の事は知っているでしょう」
質問の意図がよく解らず、風間さんの事と仰有るのは、と小さく首を傾げ問い返す。天霧さんは何か表情に感情を浮かばせること無く、言葉を続けた。
「彼は西の鬼の頭領です。行く行くは女鬼と子を成し、鬼の血を繁栄させる義務がある」
「……彼の気持ちは?」
「……。出来る限りでなら、私共も風間の意思を採択したい」
ですが。と続ける彼の声はひどく冷たいものの様に聞こえた。私を非難するように、責めるように。しかしそんな感情を、表には一切出さない。
「男は、困るんです」
疑問に満ちた私からは、ただ「は?」とそのひとつの音しかでなかった。言いたいことは分かる。風間さんは鬼の頭領で子孫を成さなければならなくて、それでも相手くらいは出来る範囲で風間さんの意思を尊重したい。だから非生産的な男は駄目。問題は、だ。
「どうしてそれを俺に?」
「……。薄々お気付きかもしれませんが、此処最近雪村の女鬼に加え、貴方にも執着していますね」
「……」
愛玩用にとか言ってみたり、顎を掬ってみたり。確かに趣味の悪い冗談も幾つか思い浮かぶと同時、島原で見せたあの表情が引っ掛かる。そして、あの夜、梅さんの肩越しに見えた姿、あの夜あの場に居合わせた理由もだ。
不意に足元に視線を落とし、「風間さんの心境は分かりかねますが、」とその場にあった小石を足の先で転がした。それが止まるまでの一秒を目で追って、視線を上げると話の途中でこんなことをしている私を責めるような目でもなく、怒りも呆れも含んでいない双眸が私を変わらず見据えていた。
「……俺に、どうしろと言いたくて此処に?」
「風間にあまり関わらないでいただきたい。本人に言っても聞かないのは、性格上お察しいただけると思うので、貴方直々に参りました」
おや。と、つい目を丸める程ざっくりとした口振りだ。
「あはははははっ!!」
急に笑い出した″椎名紗良″に、初めて目の前の男は感情を見せた。それは至ってシンプルに、″何なんだこの男は″と、不審なものを見る目付きだ。大丈夫、今の私は私であって、私じゃない。脳裏に浮かんだのは、やはり何か言いたそうな風間さんの表情だった。
「嫌ですよ。風間さんの交流を、そして俺の交流も、貴方が阻むものじゃない。頭領だから?だから、友人も作ってはいけないんですかねぇ?」
あの翠の人そっくりに口角を上げ首を傾げれば、天霧さんは呆れたように重たい溜め息を吐いた。そうして、「友人であれば、然程の問題もないのです」と、その言葉に今度こそ私は首を傾げる。
「……例え鬼でも、貴方は男です。血がどれ程薄くても女でさえあったなら……」
幾つか手立てもありましたが。
そんな、まるで私が風間さんを好いているかの様な言葉に苦笑しつつも、それ以上に甚だしい誤解を孕んでいたことに肩を竦めた。私が鬼?そんな世迷い事を信じた子供は、もういない。
「何か勘違いをしている様ですが、俺は藤堂さんの弟で、人間ですよ」
「鬼です」
間髪を入れずに返ってきた言葉に一切の迷いも揺らぎもない。あまりにも当然と言って退けられた言葉に、だらんと垂らした両手は袴をぎゅっと握りしめていた。
「風間から話は聞いております。何も彼は鬼の姓だけで判断したわけではないでしょう」
「……?」
「風間は、貴方の血を舐めました。そしてその上で、貴方は鬼だと言ったのです」
「――――」
「確かに彼には少々困った面もありますが、頭領としての技量も、鬼としての誇りも、充分に有る。見誤りなどありません」
その彼が、貴方は鬼だと言ったんです。
鈍い衝撃が頭を走る。確かに、そうだ。池田屋で出逢った彼は、確かに私の血を舐めた。その血で、私を鬼だと言った。此の身体に流れる血は、あの頃と一寸の変わりもない。頭が痛い。つまり、どういう事だ?
しかしそれよりも、それならば、彼らが欲しいのが、鬼の子を成すただの"道具"で良いのなら。
「……女鬼が手に入れば、新選組の方々に危害を加える気はない、と?」
「ええ。私共は争い事を好んでいるわけではありません。嗚呼そういえば……、先日の件ですが、貴方の御友人に危害を加えたのは風間ではない」
「……」
「我々鬼が何の危害も加えようとしなかった人間を傷つけたと思われては、鬼の誇りに関わりますので誤解を解いておこうと」
あぁ、やっぱりあの夜、梅さんの肩越しに見えた姿は間違いでは無かったのか。無意識の内に眉を寄せていたのであろう私に対し、天霧さんは言葉を続ける。あの時、私に近寄る羅刹を仕留めようとした。しかしどういうわけか、身を挺して守ろうとした男が前に出た。手元が来るったわけじゃない。だからこそ、梅さんが血を流した。
梅さんは純粋に私を守ろうとしてくれたのだろう。未だに処分を言い渡されていないところを見ると、梅さんは羅刹について何も知らない。
「……天霧さん、先程の言葉にひとつ確認します」
「なんでしょうか」
「"女鬼"なら、誰でも良いのでしょうか。どんな容姿でも、中身でも」
「極端に言えばそうなります。我々は子を宿してほしいだけ。……とは言え、鬼としての誇りが欠片もないのは困りますけれど」
「なら、――――」
私が言葉を続けようとした途端に強い風が吹き、目を開けると、天霧さんの姿は其処にはなかった。
鬼が新選組に危害を加えるのは、雪村さんがいるからじゃない。女鬼が、いるから。――そうか、そういう……事だったのか。
あれから幾日か過ぎた頃、世間の状況は大きく変わりつつあった。俗に言う鳥羽伏見の戦いが、後数日で始まろうとしてるのだと言う事が、私の耳にも届いていた、
そんなある日、千姫さんが屯所にやって来た。かと言って私には関係のないことなので、話に混じるでもなく中庭で木刀を振っていた。それを終え、縁側を渡って自室へ帰ろうとしたときに、広間の前を通ったのが間違いだったのだろうか。「紗良か」と土方さんの声がして、入れ、と命令口調で言われて戸を開けると、何やら深刻そうな顔をした千姫さんと君菊さんが座っており、私に困った視線を向けている雪村さん。
状況を把握できていない私を土方さんはちらりと一瞥してから、二人へ視線を戻す。口を開いたのは千姫さんだ。
「ねぇ、千鶴ちゃん。さっきも言ったけど、今は危ない頃なの。前と状況が違うわ。だから……、私たちと一緒に来た方が安全なのよ」
「……」
うん、私もそう思う。私も雪村さんも、此処を離れた方が迷惑にも成らない。私と違って受け入れてくれる先があるなら、願ってもない話じゃないか。
そんな私とは裏腹に、雪村さんは返事を渋っている様だった。そんなに此処が好きなのか。それなら、私と同じだ。出て行かなくてはいけないと頭で考えつつ、行く宛がない上に此処の居心地がよく、丸まって呑気に居座っている。
「出て行きたかねぇんだろ。……だったら、此処に居りゃあいい」
土方さんの言葉に若干綻んだ雪村さんの表情は、くるりと変わって不安げに私の方を向いた。大方、私があの夜に言った言葉が尾を引いているんだろう。……、土方さんがこういったのに、私がとやかく言う資格はない。……言える、筈がない。
「…………良いと思いますよ。雪村さんが此処に居たくて、土方さんがこう仰有ってくれているんですから」
紗良君らしい笑みを繕い、それが崩れる前に「夕餉の買い出しがありますから」と広間を出た。本当は、そんなもの無かったけれど。
次に、街に出ていた私が帰った頃、屯所が何やら慌ただしかった。どうやら近藤さんが撃たれたらしい。近藤さんは、死なない。シナリオを思い返しても、この人は鳥羽伏見の戦いでも登場していたのだから、大丈夫。かと言え弾痕の治療の為に肌を焼かれ、その呻き声は聞く此方も辛くなった。
――――パァン
乾いた銃声が、ひとつを合図に幾度か鳴る。あれは屯所の裏側だろうか。挑発する様な音に顔を顰めた私の視界を、フッと白い何かが横切った。
「――沖田さん?」
どうしてそう思ったのかと聞かれると、勘でしかない。近藤さんが銃で撃たれ、銃の音が鳴った今、怒り狂って出ていくとすれば、
「――――!」
考える間もなく門の方へ駆け出した。これ程まで全力失踪したときなんて、いつ以来だろうか。
"ねぇ、紗良ちゃん……労咳って、"
治るの?
あの時の言葉には、そういう色を含んではいなかったか。治る?何を使って?変若水で?飲んだ?まさか。いつ。あの時には、もう既に隠し持っていた?あの薄くなった胸板に、御守りの様に、ずっと?
私が追い付いた時、沖田さんの他に、浪士ではない誰かが居た。否、沖田さんと言えど、あの柔らかな栗色をした髪の毛が、寂しさに涙を溢す兎と同じ色に、染まっていた。
飲んだ、のか。
ヒュウッと冷たい風が、喉を切り裂き肺へと入り込む。
彼が小柄な人物と刃を交えるのを見ながら、嗚呼、もう其処まで動けるのか、と。治る訳じゃない。労咳は、治らない。それをいつ、私は彼に教えれば善かったのか。
「南雲家に引き取られた後、俺が、どれだけの苦しみを味わったか解る……?!」
何処と無く悲痛の混じった声の主。"南雲家"と云うキーワード。一人の人物が頭に浮かぶ。雪村さんの、双子の、兄。
南雲家に引き取られた後、女鬼じゃないと言うだけで酷く虐げられた、綺麗に綻ぶ女の子と同じ顔した男の子。さぞかし悔しかっただろう。双子の妹は、兄である自分の事をすっかり忘れ、守られ、楽しそうに暮らしてる。
雪村さんを不幸にしようとするのは、御門違いなのかもしれない。だけど此の人は此の人なりに妹の事を想い、屈折しながらも愛してる。私がもしも彼ならば、迷うことなく殺しているだろう。
「誰も守れず、誰からも守られず……っ!己の存在理由すらわからない!!だから、可愛い妹にも此の苦しみを味あわせてやるんだよ!!」
――誰が、この人を責められようか。
すんなりとそう思ってしまう私は、やはり醜いのだろうか。雪村さんなら、其れでも良くないとでも言うのだろうか。
しかし、そう思ってしまう程に、彼の声は、表情は、悲痛に満ちて、
「沖田さん!!紗良君!!」
その後は、一瞬の出来事だった。雪村さんと藤堂さんが駆け付け、彼等の姿を見た南雲さんは屋根の上へ。物陰から雪村さんを待ち構えていた銃を持った男達に気付いた沖田さんが、彼女を庇おうとして、否、庇って、……地に、伏せた。
――――千鶴、お前はもっと、苦しめばいい。
そう、南雲さんは言った。
気が付くと屯所の中に居た。沖田さんの治療に当たっていた山崎さんが、苦渋の色を表情に滲ませる。からん、と無機質な音と共に縦断が容器に転がった。
「銃弾を取ったなら、羅刹の体は治る筈なのに……可笑しいですね」
「此の弾は?」
「銀の様です」
私は何も分からない。覚えていない。雪村さんが誰のルートを進んでいるかも解らない今、手立てがない。何故、沖田さんの傷が塞がらない?銀と言うのが関係しているのか。あの土方さんが、ちらりと私の方に目を遣ったのが解り、唇を横に結んだ。
私には、解らない。何も、価値がない。
無力な事なんて、ずっと前から、解っていた事じゃないか。存在価値が無いなんて、ずっと、ずっと前から、同じだったじゃないか。
「――紗良」
俯いた頭上から優しい声が掛かり顔を上げると、行くぞ、と原田さんが微笑んだ。へらりと笑ってみたものの、上手くいかない。悟られたのか腕を引き上げられ、広間の外へ連れ出される。
物も言わぬまま縁側を伝い部屋の前に差し掛かる時、緋色に視線を上げた。その侭視線をずらし、朧月夜に双眸を細めれば、蚊の鳴く様な声が洩れた。
「――何も、解らないんです」
沖田さんが治らない理由も、沖田さんが羅刹になった時も、藤堂さんが苦しむ気持ちも、これから此の組がどう進んでいくのかも、――あまつさえ、自分の、身体の事も。
無力だ。
素直に、そんな言葉が滑り落ちた。
原田さんの角ばった大きな手が頬に添えられ、親指の腹が優しく目尻を撫でた時、初めて泣いていた事に気付く。
目と鼻の先に在った彼の部屋の中へと手を引かれると、その侭抱き寄せられ変わらない手付きで私の髪に指を通す。
「泣き止ましてやりてぇところだが、お前の場合泣ける時に思う存分泣いとけよ」
近藤さんと沖田さんが大阪で療養する事が伝えられたのは、その次の日の事だった。
大海を知らない少女
薄暗い井戸の中で、ずっと息を潜めて、
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