42 感じる鼓動を安らぎだと知る こういう報告は局長にするものだと分かってはいるが、こんな夜更けに近藤さんが起きているとも考えがたかった。それに脱走者に対し、切腹を命じるのが誰かということくらい、数年を共に過ごした私でも知っていた。
「土方さん、起きていますか」
明かり障子の前に立ち、呼び掛けた自分の声が震えていないことに安堵した。その向こうから「何だ」と低い声が聞こえてきたことに、すっと障子を横に引くと、案の定まだ寝ておらず、端正な横顔蝋燭の灯りに照らされていた。そして運が良かったのか悪かったのか、土方さんの目の前には、この時間には寝ているとばかり思っていた近藤さんの姿。そして傍らにきちんと敷かれてある布団と、土方さんが何時もの袴ではなく夜着になっていることから、珍しくこの人も寝るつもりだったのかと悟る。
二人の目が私の方へ向くと、ぎょっと丸まったのに対し、珍しい顔をするものだと小さく肩を竦めた。
「その顔は、」
「お話があります」
言葉を遮るように告げれば、ただ、座れ、と声が掛かる。正座をして二人の方へ顔を向けた。大丈夫。声は震えない、なにも怖くない。
多少早口で紡がれた言葉に、彼らは意味が分からないと言うかの様な表情を、ありありと浮かべていた。
「椎名君、それは一体どういう事かね」
「ですから。私は、消えるかもしれません」
「とは言ってもな、てめえが此処に来て、何年経ったと思ってんだ。今更何かあったのかよ?」
「ええ。……現に、消えかけました」
「はあ?!」
ふっと目を伏せ、先程の事を途切れ途切れに説明した。斎藤さんとの話は伏せ、肌が透けたことや、指先が形を無くしたこと。今でこそ普通だからか、二人も信じられないような表情だった。自虐的な笑みを溢し、本当に言わなければならない事を言うべく口を開いた。
「私が消えたときは、椎名紗良の存在の処理をよろしくお願いします」
脱走を禁じられている組の中、幾ら隊士ではないと言え、藤堂平助の弟が脱走となれば彼の信用も――――。そこまで思って思考を止めた。ああそうだった。彼は、藤堂さんは、羅刹になった藤堂さんは。
「……平助が"死んだ"今、弟が無理に此処に居る必要はねえ」
「歳!」
「ええ。けれど、情報を持ち逃げしたと言う考えになれば、話は別になります」
「だから局長と副長に報告しにきたっつうわけか。相変わらず頭の回る奴だな」
「歳も椎名君も少し待ちなさい!俺はそれよりも気にかかっていることがある」
私の方へ向けられた双眸が、やけに緊迫の色を帯びていることに気付き、自然と背筋が伸びた。なんでしょうか、と言った声は、ここに来るときよりも僅かに震えていた。
手を出してはくれないか、と哀しい表情を浮かべた近藤さんが言うので、膝の上で重ねてあったそれを静かに近藤さんの方へ向けた。すると、ゆっくりと腰をあげた近藤さんが私の目の前で腰を下ろし、向けてあったそれを優しく自身の両の手で包み込む。安心したように垂れた眉が、「よかった」と震える声が、とても暖かいものだった。
「怖かっただろう」
「え?」
「透けていく手は、怖くはなかったか?」
私の目をまっすぐに見つめる瞳を、綺麗と見ているだけだと思っていたのに、私の口から勝手に言葉がついて出た。
「、きえたくないと、おもいました」
「……」
「此処から、消えたくない。此処にいたい。嫌だ。って、」
「ああ……」
「私、……ああ、そっか。私、逢えなくなるのが、怖かったんだ」
誰に、なんて言わなくても分かることだった。ああ。と返事をした近藤さんの声が震えている。
「椎名君は、変わったな」
「そうでしょうか」
「ああ!……ずっと心配だったんだ。宗次郎……総司が試衛館へ来たすぐの瞳とよく似ていたよ。何かを諦めたような、何処にいて、何を感じているかも分からないような。……それこそ、初め、痛くないように殺してくれと言ったときの瞳にはぞっとした。年端もいかぬおなごがする瞳とは、信じられなかった」
「……」
「生を諦めたような瞳が、此処へ来たとき、変な話だが、死に怯え生を欲しているように見えた。――俺は、何よりもそれが嬉しい」
まさかそこまで見透かされていたのかと思う同時、私はそこまで変わったのかと自分でも驚く。それはきっと、此処のおかげだ。そして、私に事実を知る機会をくれた、あの人のおかげ。
嬉しいんだよ。と、もう一度繰り返し私の身体を包み込んだ近藤さんの瞳は見えないものの、声が涙を帯びていることで濡れているのは分かった。感じる温もりに心が落ち着いていく。あの気紛れな翡翠の目をした猫が、あれだけ慕っているわけだ。私とあの猫が似ているならば、この温もりを受けたとき、きっと同じくらい、もしかすると私以上に溺れたのだろう。
「……。今夜はもう遅い。部屋に戻ってゆっくり寝なさい。なあに!大丈夫だとも。椎名君は大丈夫だ。なあ歳、そうだろう?」
近藤さんが振り返った先で、難しい顔をしていた土方さんが、はっと顔を上げ「そうだな」と頷いた。それに満足そうに頷き返す近藤さんは「ではそろそろ帰ろうか」と私に声を掛けるが、あの表情が気になって仕方がない。
「……あの、土方さんへの伝言を預かっておりますので、私は少し残ります」
「伝言?」
「前に島原へ通っていたときがあったでしょう?その折にお世話になったとびっきりの美人さんから、土方さんへの言付けを預かっていたのを忘れていました」
「む。それを関係のない俺が聞くというのは野暮な話だな。それでは先に失礼しよう。歳も椎名君も早く寝るんだぞ?おやすみ!」
「御休みなさい。いい夢を」
近藤さんが笑顔で部屋から出て自室へ帰る足音を聞き終わってから、菫の瞳が私を見た。「てめえが島原へ行ってたなんざ何月前の話だよ」と投げつけられた言葉に「なんだ、ばれてたんですね」と平然と返す。
「ったく……。で?実際は何の用だ」
「それは私の言葉ですけど。何かあるんじゃないですか?あれだけ何か言いたそうな目をして、誤魔化しは無しですよ」
「変なとこばっか総司に似やがって……」
「何かにつけて、私って沖田さんを引き合いに出されますよね」
「似てきたからな。……まあ、なんだ。お前に言うことは何もねえよ」
「……。そうですか。ならいいんです。御休みなさい」
こうなった土方さんに何を言ったところで口を割ることはないだろう。そう判断して早々に腰を上げると、「ちょっと待て」と声が掛かる。ほうら来た。此処までしないと態度でも声でも示すことのない目の前の男に「意地っ張り」と口角を小さく上げれば、益々総司に似てきやがったなと溜め息を吐かれた。
「今夜は此処で寝ろ」
……。うん?
予想してなかった言葉に、私の口からは素直に「は?」という音が漏れていたらしい。その音にも何か表情を変えるでもなく、ただ、「此処で寝ろっつってんだ」と繰り返された。此処で寝ろと言われても、はいそうですかと頷ける性格はしていない。年頃の娘に同じ部屋で寝ろというのなら、それなりの理由を言うべきだ。突っ立ったままの私に痺れを切らしたのか、垂れ下がった右手首を思いっきり自分の方へと引き寄せた。当然の事ながら前へとバランスを崩した私の身体は、引き寄せた本人の右での中へと抱き止められる。
「いいから、寝ろ。近藤さんに何を言われたって、どうせ今夜消えたらどうしようとか思ってんだろうが」
「……だったらなんですか」
「鬼の副長が夜通しこうやって見張ってた人間が、逃げれる筈がねえ。そうやって平助の名誉のためにも脱走者扱いはしねえでやる」
「じゃあ、どう対処するつもりで?」
「そこはそんときだろ。そもそも、てめえは消えねえよ」
この人らしくない滅茶苦茶な言い分だ。強引なところはこの人らしくもあるが。
一晩一緒に寝ていたなんて、鬼の副長ともあろう方が衆道に間違われたらどうするんです。そう尋ねたら「衆道は武士の嗜みなんだよ。知らねえのか?」知りませんよそんなの。
「……。布団、持ってきます」
「要らねえ」
言うや否や、二人揃って布団の上へ倒れ込む。私の場合、倒れ込まされた。いきなり何を、と文句のひとつ言ってやろうかと思ったが、顔をあげた瞬間男の人の手が頬に触れ、とっくに涙も乾いた目尻へと親指が添えられる。
「泣いたんだな」
何も言わなかった。何も言えなかった。そんな私に重ねて何をいうでもなく、片手で私の身体を逃がすまじと抱き締めたまま、もう片方の手で掛け布団を引っ張る。
せめてもの抵抗で「私、夜着じゃないんですが」と恨めしく言えば、土方さんは悪びれることなく「気にするな」と腕の力を強めた。その腕がほんの少しだけ震えている気がし、不安なのは貴方の方じゃないのかと思ったりもしたが口には出さなかった。
「明日」
「はい」
「総司を見舞ってやっちゃくれねえか」
「沖田さんの、ですか」
「様子がおかしいんでな。だが、俺や近藤さんの前では強がるんだよ。同じ猫同士なら何か言えるかもしれねえだろ」
猫同士とは私と沖田さんの事かと思えば妙におかしく、腕の中でくすくすと笑う。土方さんが不思議そうに「どうした?」と聞くから、今度は私が土方さんに言う事はありませんよと返した。きっと、今表情を見ればこの人は苦笑を浮かべているか眉間に皺を寄せているんだろう。
御休みなさい。そう言って瞼を下ろせば、薄い皮膚の向こうで蝋燭の火が生んだ薄暗い明るさが透けた。土方さんの鼓動と自分の鼓動、どちらのものか区別がつかなくなった頃、私の意識は眠りの中へ落ちていく。
感じる鼓動を安らぎだと知る
曖昧な灯火をほんの少し私と重ねた、
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