41 足枷を外す鍵の在処は 私のクラスでいじめが流行ったのは、小学生の頃だった。小学生といえど、そうとは思えないくらいに内容はえげつないものであり、今にして思えば、よくもまあ、あんなことが出来たものだ。
クラスのリーダー格にいる人物が「気に入らない」と言うだけで、教室は言われた人間に対して牙を向いた。ドアを開けた途端に、視線が体に突き刺さる。ヒソヒソと私に対する悪口が耳から脳に、心の奥にと響き渡る。文房具なんて一月にどれくらい破壊されたかを数えるのが億劫だ。
「……きっかけは、ひどくつまらないものでした」
ぽつりぽつりと、自分を崩さないよう、守るよう、言葉を紡いでいく私の姿は、目の前の男の目にはどの様に映っていることだろうか。
――――私の前に、標的になっていた女の子がいました。
顔も名前も朧気になってしまったが、卒業する前に遠い私立へと転校したのは覚えている。黒い綺麗な髪が印象的で、顔は可愛らしかった気がする。ただそれが仇になり、彼女へのいじめが始まった。たしかリーダー格の女子生徒が、違うクラスにいた彼女の幼馴染みのことが好きだったのだ。
「……あんたは?」
「加わりませんでしたよ。……だからこそ、そのままでいればよかったんですかね。見て見ぬふりを徹底する生き方が出来ていれば、よかったのかもしれません」
そうするには、あのときの私はあまりに綺麗すぎた。両親の愛情を沢山受けてきたからこそ、いじめと言う行為が許せなかった。今でも苛めに加わる人間に、嫌悪感というよりも殺意に近い感情を抱くが、狡く成長した私は、"無難な生き方"を知ってしまった。
「私は……良い子でいたかった。両親の恥にはならない子供でいたかったんです」
だから、あの時いつもと同じようにバスケットボールをぶつけられ、殴られ、蹴られている女の子を守ったんだ。否、守ったと言えば語弊があるかもしれない。"いじめを止める良い子"を、演じたかっただけなのかもしれない。そんな自分に酔いたかったのかもしれない。
それがリーダー格の人間の気に障っただけのこと。小学生と言えど、あんな狭い箱の中では、自分以下の存在を求めしまうものだったのだろう。どれだけ仲の良かった友人も、容赦なく牙を向いた。見て見ぬふりをして、後でごめんねと免罪符を求めるかのように謝る子もいた。リーダー格の人間が一度標的を決めれば、周りの人間はそれに同調するんだ。そして最後に言う台詞は「逆らえなかったから」と、まるで自分は被害者であるかのように。散々人を虫けらのごとく扱って、傷つけ、いざ自分達が裁かれる側になった時分に、そう、言ったんだ。
「役立たずになるのが嫌だと、私は言いました。守られるのも嫌だと。そうなって嫌われるのが、怖かった」
伏せていた目を、少し上にあげてみると、ずっと彼は私から目を逸らさずにいた。その目は決して同情を寄せるものでも、かといって嫌悪や好意を見せるものではない。ただ、私の言葉を待つように。
目を瞑るのは怖かった。瞑れば、あの教室が浮かんできそうだった。あの下卑た笑顔が浮かんできそうだった。既に、不愉快な笑い声が耳にこびりついたまま、私の体を這うような感覚がしているから。不細工、死ね、消えろ、要らない、数えきれないほどの罵詈雑言に、今でも幾つか消えずに残っている暴力の跡。
「……何度も休みました。けれど数日経つと薬を飲んででも行かなければなりません。ご近所の目がありましたからね。不登校な子供なんて……井戸端会議の話題にもってこいでしたから。ああもしかすると、外面を装うのは親譲りなのかもしれません」
何をされたかまで、詳しく話しましょうか?と尋ねてみれば、「あんたが話したければ話せば良い」とあくまで私の意見を聞いてくれるようだった。この人のこういうところは嫌いじゃない。きっと私は、もういい、と言われると呆れられたか聞くに耐えないかと捉えるし、かと言って、話せと言われても、もう話したくないのにと思っただろうから。全くもって面倒な人間だという自覚はある。
「……、中学へ入る頃、私は地元の寺子屋には行きませんでした。逃げた、と言うのが正しいのかもしれません」
新しい環境、新しい友人、新しいクラス。何もかもが初めてで、自分をリセットするにはちょうど良かった。最適だった。――――筈だった。
「やり直すにも疑心暗鬼。何も出来ない。いくら友人が出来ても、いつ裏切られるかわからないと疑って、怯えて、勝手に壁を作り続けました」
仮面をつけて笑って、そうした生き方はこの上なく楽だった。傷つくことがなければ、傷つけることもない。周囲が望む優等生になんかならなくていい。周囲が望む、明るくてよく笑う言い子になればよかった。
「結局、虐めを受けたことをいつまでもいつまでも引きずって、被害者ぶって、誰も信じることをしなかった」
勝手に壁を作り、距離をおき、私は楽しかったんだろうか?逃げて辿り着いた中学三年生。あの桜並木を歩いた頃、私は望んでいた結末をつかんでいただろうか。否、掴めていたなら、私隣を歩く友人と、素直に笑い合えていた。
「……あんたは、自分を信じていたか」
今まで黙って聞くことに徹してくれていた斎藤さんが、口を開いた。そしてその疑問に、静かに首を横に振った。
「自分を信用せぬ者に、俺なら背を預けぬ」
「……」
「自分自信を愛そうともせぬ者が、周りから向けられる愛に気付ける筈がない」
「……」
「家族、友人、周りの者に、勝手に線を引いて壁を作ったのは、あんた自身だ」
「っ」
「自分が信用されていないと全く気づかぬ程、あんたが思っている程に、周りの人間は馬鹿ではない」
この人の言葉は的確に私の隙間を突いていく。包み込むなんて優しさの欠片も見せない。ただ、正しいことを的確に、それがきちんと私の心に収まっていく。反論の余地もない言葉に、ただ唇を噛んだ。この人の前で泣くのは、嫌だった。弱さなんて見せたくないのは、斎藤さんが嫌いなわけでも信用していないわけでもない。女子供扱いをせず、まるで対等であるかのように意見をくれるこの人の前で、子供や女のような面を見せたくなかった。
「椎名、言いたいことがあるなら言え」
「……何も、ありません」
必要以上に言葉を発すると泣きそうで、静かに瞼を下ろした。自分でも薄々感じていたことが、他人の口から聞くだけで全然違うものに感じられる。
嗚呼そうだ。彼の言う通り。勝手に仮面をつけて、分かってもらえるわけがないと疑って、いつまで経っても幸せになんてなれる筈もなかったんだ。
「椎名?」
少し間を置いて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
ああ、そうだ。そうだったんだ。
「――悲劇のヒロインは、もう、舞台を降りるべきだ」
泣いていた子供が、私の背からするりと何処かへ消えた心地だった。アンコールなんてもう要らない。被害者面した悲劇のヒロインが舞台を降りて駆け出すと、舞台は喜劇へ変わるだろうか。
下を向けていた顔を上げ、真っ直ぐに斎藤さんを見詰める。背が軽い、頭もいたくない、耳からは静かな風の音しか聞こえない。体内は自分の鼓動で満ちている。
嗚呼、私は、生きている。
「ね、そうでしょう?」
「……、ああ。そうだな」
「気付かせてくれて、ありがとうございます」
少しの間をおき、斎藤さんが目を細めて優しそうに微笑んだ。それに吊られて私も笑う。いや、もしかすると吊られて笑ったのは斎藤さんの方かもしれない。嗚呼、自分はこれ程自然に笑うことができたのか。なんだか気恥ずかしく、つまらない話を聞かせましたと、頬が緩む。
少し空気が柔らかくなった時、ふ、と斎藤さんの顔付きが真剣になった。
「……椎名、」
「なんでしょう」
前々から、あんたに言いたかったことがある。それが今、明確に分かった。
斎藤さんの口からそう言葉が紡がれるのを、まるで遠くから鳥が飛んでくるのを待つかのように、私は眺めた。
視界の端で、季節外れの桜が一枚、ひらりと舞い堕ちた。
「俺は、あんたを好いている」
濃藍の夜空が私を映す。赤くなるものだと思っていた言葉に、不思議と言葉を発した彼も、言葉を向けられた私も、いつもと変わらない様子だった。ふいに自分の手元へ視線を向けると、ぎゅう、と握られた拳に「私も緊張しているのか」と他人事のように自覚した。他人事のように捉えているわけじゃない。捉えていたら今ごろ私は無難な反応を返せていただろう。え、と口を突いた声はまるで自分じゃないようだった。
何かの冗談をいう人ではない。こんなに真っ直ぐにそんな言葉を告げられたことがないからこそ、どう返せばいいのか分からない。
「女としてか、人としてかはまだ分からぬ。ただあんたを好いていると、伝えたかった」
静かに距離を詰められ、手に自分以外の温もりが触れる。再度見詰めた瞳に映る自分が、今度は馬鹿みたいに赤く染まっていた。それが見てられなくて、また顔を俯かせると手の甲に季節外れの花弁が舞い降りた。
(え、)
サッと血の気が引く。私の手の甲から、私とは違う透き通った色白の肌が透けて見えた。なんだこれは。バッと手を払い除け己のものと擦り合わせる。その姿が相手には拒絶のように見えるかもしれないと言うことにすら気付かないまま自分の手を見詰めると、畳の目までが透ける。
「椎名、それは、」
「っ!!」
怖い、怖い。怖い怖い怖い。透けてる、なんで。今までこんなこと一度もなかった。
「なんでもありません、ひとりにしてください」
早口で捲し上げ、無我夢中で障子を開けたのは透けた手か、それとも足だったのか。斎藤さんの部屋から飛び出して逃げた私は一目散で自室へと閉じ籠った。指先が既に形を無くしており、ぎゅうっと自分自身を抱き締めた。脳裏に浮かんだ緋色に逃げることを良しとしなかったのは、自分がこの世界の人間じゃないと言うことを実感したから。そんなこと、ずっとずっと忘れていなかったはずなのに。
「……っ!」
膝から崩れ落ち、自分を抱き締めたまま上体を前に倒す。畳に頭を預け、みっともなく涙を溢しながら嗚咽を殺す。助けてほしい。口には出さなかったものの、確かに私はそう思った。駄目だ。こんなこと口に出すのはおろか、思ってもいけない。許されない。
誰にも縋りついてもいけない。助けを求めるな。甘えるな。一人でいい。
どれだけ時間が経ったのか、涙が止まる頃には、もう肌は自分の色を取り戻し、畳の目は肉体に邪魔され見えなくなっていた。
『私を捨てるの?"私"はそれでも大丈夫なの?』
背後で、幼い少女が囁いた。そんな気がした。
痛む重たい頭をもたげつつ、部屋を出れば寒空が気持ち良かった。重たい足を引き摺りながら、こんな夜更けでも起きて筆を滑らせているのであろう人の部屋へと向かう。
足枷を外す鍵の在処は
守られていたのはどちらだったのか、
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