40 夢喰いバクも記憶は喰わぬ
――気まずい。
あの夜の一件以来、斎藤さんとは一言も口を利いておらず(普段から頻繁に話しているわけでもないが)、それを少なからず妙だと思ってる人もいるらしい。まあ要するに、ご飯の間とか雰囲気が重苦しい。ただえさえ藤堂さんの羅刹化で幹部の皆さんは息が詰まりそうだと言うのに。せめてもの救いは、梅さんの容態が安定し、後は目を覚ますのを待つだけになったことだ。
「……御馳走様でした」
「紗良ちゃん、まだ残ってんぞ?」
「どうぞ、永倉さんの好きにしてください」
原因のひとつにもなっているであろう自分が退くことで少しはマシになるかもしれない。「そう言いながら、お前昨夜も食べてねえだろ?」と言う原田さんに大丈夫だと口を開こうとした際に、低い声がそれを遮った。
「左之、放っておけ」
シン……と広間が静まり返るような物言いだった。そうだ、問題はこれなんだ。私一人なら感情も隠せるが、何しろ斎藤さんが、コレ。こんな斎藤さんを見たことがないと、最初は永倉さんたちも珍しく思い黙っていたが、かれこれ五日ほど続いている。
怒っている原因もわかるのに、どうすればいいのかが分からないまま、日だけが過ぎていく。自分が悪いと分かるのにも関わらず、何故か腹が立つことを初めて学んだ。
ふいと広間を出て、なにか言いたげにしていた原田さんが追い掛けてきても見つからないよう別の場所へと逃げる。
不動堂村へと移った屯所は今までよりもずっと広い。物陰を探して膝を抱えていれば、それこそ滅多に見つかることはない。頭がぐるぐるとして、謝ればいいのだと分かっているのに、たった一言が紡げない。その理由はきっと、心の奥底では思っているんだ。あそこまで怒ることないじゃないか、と。生きてほしいと思うのがそんなに悪いことなのだろうか。ぎゅう、と膝を抱える腕に力を込めた。
「紗良ちゃん?」
「……、意外でした。……永倉さん」
ふと声が降ってきた方を見上げれば、水色の空には桃色や紫が滲んでいた。私の姿に目を凝視していた永倉さんは、「なにやってんだ?」とその場で腰を下ろす。
「……そういう永倉さんこそ、どうしてこんな所に?」
「あー……、なんつうか、やりきれなくてよ」
キュッと眉をしかめた永倉さんの表情は今までにないくらいに厳しく、切なく、苦しそうだった。まさか藤堂さんになにかあったのではないかと、有り得ないはずの予感が頭を過ったが、それも永倉さんの次の言葉で消え失せた。
「……平助が、目を覚ました。それは嬉しいんだけどよ、嬉しいのが、なんだかな」
私には永倉さんの気持ちがよく分からず、ただ言葉を待った。羅刹のデメリットは、死んだときに灰になること、怪我を負うとその分寿命が縮まること、それと吸血衝動だったか。それ以外に私は知らない。もしかすると、覚えていないだけなのかもしれない。吸血衝動がどれ程の物かは知らないが、終わるはずだった寿命を長らえると考えれば、私自身、変若水を毛嫌いする理由はいまいちよく分かっていない。
「……俺たちの守ってきた武士の誇りって、なんだろうな。死ぬときには潔く死ぬっつうのが武士としての最期だろ?それを、あんな物で……!っ俺たちは、潔く死なせてもくれねえのか?!」
「……」
「っただ、……心のどこかでは平助が生きてるのが嬉しいんだよ。例え羅刹でもな。それが、悔しいぜ」
年間で約三万人、たった一時間で三人が自ら命を絶つ時代に生きていた私は、そんな誇りなんて考えたことがなかった。藤堂さんがこうなることが確定したとき、私は何を悔いて何を喜んだのか。喜んだのは、藤堂さんが生きてくれること。悔いたのは、ただ、自分の不甲斐なさだけ。
「……私は、藤堂さんが生きていて嬉しい」
「紗良ちゃん?」
「軽蔑されるかもしれませんが、私が大切に思うのは、命だけです。命に対する誇りを、考えたことなんてありません。だから、」
藤堂さんが血に狂わず、今、笑っていてくれるのなら、それが一番嬉しい。
永倉さんの目をしっかりと見つめてそう言えば、永倉さんは困ったように笑って、乱雑に私の頭をがしがしと撫でた。そして言うのだ、変わったな、と。
「紗良ちゃんの口から、命が大切なんて聞く日が来るとは思わなかったぜ」
その言葉に、ふと疑問を持った。命が大切?ああ、確かに私はそういった。藤堂さんを守りたかったのは、藤堂さんに変若水を飲ませる事態を避けたかったのは、変若水を飲むことから生まれる他の方々のこんな表情を見たくなかったからだ。そして、私は、きっと死にかけても、自分はあの真っ赤な液は飲み干さない。
「……私、斎藤さんと話してきますね」
「そういや何があったんだ?斎藤の奴、ああ見えて頑固だから喧嘩したら大変だろ」
「誰かと喧嘩したの、本当に久し振りですから普通がわかりません」
「はは、らしいな。さーてと、俺も平助を見舞いに行くか!一発殴らねえと気が済まねえぜ」
冗談めかして笑う顔には、やはりどこか影がある。御手柔らかにしてあげてくださいね?小さく笑いながらそう言って、私は斎藤さんの部屋へと足を進める。
◆◇◆
「一君、紗良ちゃんと喧嘩したんだって?」
「……何故あんたまでもが知っている」
「僕に知られたくないなら、左之さんに口止めしておくべきだったね」
何が可笑しいのかよく分からないが、けらけらと笑う男は前よりも痩せたように見える。それも無理はないだろう。まさか、必ず俺の右隣に立っていた総司がこんなことになると、誰が予想しただろうか。
「謝っちゃえば?あの子、絶対に喧嘩の仕方とか知らないから」
「それくらい俺とて分かっている」
俺の言葉に総司が少し意外そうに目を丸めたが、それを一瞥して言葉を続けた。
「……俺が謝っても、椎名は悔しがるだろう。悪いのは自分だと分かっているからな」
「……ふうん?」
「それに、そろそろ謝りに来るとは思う。追い詰められると、ひとつしか術はないだろう」
「うわ、一君ってば嫌な性格」
あんたに言われたくはないな、と総司を睨み付ければ、あることに気付いた。中身を容易に見せず、やたらと取り繕うのが上手い性格なんて一番だろう。そしてなにより、
「椎名も総司も、俺の前だけでは泣かぬだろうな」
「なぁに一君、どうしたの?」
「ふと思っただけだ。あんたたちはよく似ている」
「あははっ!そんなの言われるとは思わなか、っ、」
「総司!」
ひとつ堰を切れば、総司は苦しげに咳き込んだ。それでも俺が背中を擦れば「大丈夫だから」と手を拒む。それが分かっているからといって、「横になれ」と誘導することしかできぬのが歯痒くて仕方ない。
俺も総司も、お互いが一番の好敵手だと思っている故に弱さだけは見せぬ。椎名に関しては、この一件で、俺の前では絶対に強くあろうとするのだろう。きっと、左之のような男ならうまく甘やかせるのだろう。
「……ッゴホ、……はぁ、ごめんね。変なとこ見せちゃった」
「……総司」
「なぁに?」
「あんたは、誰かの前で泣くのか?」
「……さあね、どうだろう?」
問い掛けに対して曖昧に笑う総司の笑みは、やはり何処か椎名と重なった。邪魔をしたなと腰をあげると、もう行くの?と笑って首を傾げる総司に、また来ると言い残した。
「そろそろ来るだろうからな」
「一君ってさ、紗良ちゃんの事よく見てるよね」
言葉の真意が汲み取れず、「あんたの事もよく見ている筈だが」と答えれば、愉快そうに翡翠の目が細まっては口は弧を描いた。「なぁんだ、無自覚か」
その笑顔が何処か違って見えるのは、やはり病のせいなのだろうか。
◇◆◇
明かり障子に触れようとした手が、僅かに震えていた。あれだけ怒っている相手が、果たしてそう易々と許してくれるのか。一度入った亀裂は、修復するのはとてもとても難しいことを、私はあの時に痛いほどに学んだ。椎名です、と声をかける寸前に、奥から低い声が発せられる。
「入れ」
「……失礼します」
すうっと横に引けば、整った顔に光の線が入った。どうすれば良いのか分からずに突っ立ったままの私に、「そこへ座れ」と指し示された所へ正座した。
「あの、」
「答えは出たのか」
謝罪の言葉を発しようとした私の言葉に声が被さる。斎藤さんの求める"答え"が何に対するものかは、知っている。小さくなったように思える肺に、出来る限りの酸素を取り込み、ゆっくりと相手を見据えては口を開いた。
「私の守りたいものは、自分自身でした」
自分の世界なんて、そんなものじゃない。剣を持ったのも、藤堂さんに飲ませたくなかったのも、無我夢中とは言え人を斬ったのも、梅さんに生きてほしかったのも、全て、すべて、自分が役立たずの不要品に思われたくなかったから。守りたいのは、雪村さんでも、特定の誰かでもない。あの時から少しも成長しない、小さな幼い私自身だった。
此処に来る前、最低だなと、少し泣いた。
「……気付きたくありませんでした。自分の醜さも低俗さも、分かっていた筈なのに。私はもう、あの時に戻りたくはなかった」
すいませんでした、と頭を下げたのは、対人関係を円滑に進めたいからではない。頭をあげるのが怖かったのは、軽蔑の目を向けられるのが怖かったから。
「……椎名、ひとつ聞きたいことがある」
質問で返されるとは予想外で、思わず頭に疑問符が浮かぶ。何でしょうかと首をかしげた私を、夜空が捉えた。
「何が、あんたをそうしたんだ。"あのとき"と言うが、何があった?」
一瞬呼吸が止まり、脳裏には破かれたノートが鮮明に甦り、鼓膜の裏では誰かが笑いながらこう言った。
"死ねばいいのに"
夢喰いバクも記憶は喰わぬ
それなら私ごと食べてみせて、
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