32 溶け行く虚勢 「部屋に来い」
屯所の門を跨ぐなり、原田さんがそう言った。誰の部屋に?なんて重たい頭を揺らし、分かりきった問い掛けをする私の顔はどのように映っているのか。いつもと違い、上手く笑えている自信がなかった。
そんな私に何を言うでもなく、ゆるりと優しく頭を撫でたかと思えば、ぐっと私の肩を抱く力を強め、誘導する腕を私は反射的に振り払った。
「……紗良」
嗚呼、この顔を見たことがある。あれは誰だっただろうか、嗚呼、山崎さんだ。あの人も、同じ、ひどく辛そうな顔をした。辛い?何が。この汚れた手に触れたことが?
「今更甘えたことを言えば、私は綺麗なままで居たかった」
あの一件以来、雪村さんがどれ程綺麗な人間かを思いしった。ああ、もしかするとあの翡翠の目が私を映したのは、雪村さんがあまりにも綺麗だったからかもしれない。
「……なんでもありません。腕、ごめんなさい。私は自分の部屋に帰りますね」
逃げるようだという自覚はあった。しかし踵を返し部屋へと向かう私の腕を原田さんの腕が掴み、振り払おうとしてもびくともしない。
「な、にを」
「言ったよな?泣きそうな女を放っておける男じゃねえってよ」
「泣きそう?おかしな事を言いますね、泣いてもなにも変わらない。夜は朝に殺されて、朝はのうのうと活動を始めます」
何度も何度も夜を殺しておきながら、へらへらと燦々と輝き続ける太陽は、次は何を殺そうと言うのだろうか。はは、と自分を嘲るような笑みが溢れ、もう早くその手を離してほしかった。
甘えるのは私の特権じゃなくて、頼ることも私の特権じゃなくて、泣くことも、縋ることも、全部。
「っ!?」
力付くにでもと思っても、男性に勝てる筈は到底もなく、それどころか軽々と抱き上げられたのだから成す術がない。だらりと観念し身を任せても、頭の中では逃げたい逃げたいとそればかりだった。
部屋に着き、優しく畳の上へと私を降ろすと、じっと琥珀色の優しい瞳が私を見る。それがあまりにもいたたまれなく、ふいと目を伏せた。
「酒呑むか?」
「……結構です。もう帰らせてください、何のために連れてきたんですか」
「そうやって逃げて、何になる」
「――っ、離せ!!」
「離さねえって言ってんだろ!」
初めて聞く原田さんの荒げた声に、びくりと揺れた体は一瞬にして温もりに包まれた。理解ができなかった、したくなかった、けれどはっきりと分かったのは、自分の体が原田さんに抱き締められていることくらいだ。
「っ、はな、し」
「悪かった」
何を謝っているのか、何で貴方がそんなに辛そうな声を出すのか。何で、何故、もう、離して。温かい人肌も、優しい声も手の動きも、要らないから。
「こんなに思い詰めるまで、放っておいた」
「……」
「なあ紗良、お前が思ってるほど世間は簡単にはできてねえし、お前は大人じゃねえ。まだ17、18の子供で、全部を我慢するには幼すぎる」
「……っ」
心地のよい低音が、耳から体の細胞にひたりひたりと張り付き、じわりと染み込むような心地がした。
「泣いとけ」
初めて逢った頃から変わらない大きな優しい手が、私の頭をゆるやかに撫でた。子供をあやすかのように。
それから逃げようとすればするほど、原田さんの腕の力は強まるばかり。もう、嫌だ。何でこの人は、この人はこんなにも。ぐっと腕に力を込め、少し原田さんの体と間隔を開け、じっと目を見ると、そこに映る自分は確かに情けない顔に見えた。
「――私は、人を殺しました」
つうっと、静かに頬を伝うものが何かなど、考えずともわかることだ。そして、再度私を包んだ温もりも。
ああ、もう最悪だ。こんなの、流したくなかった。人を斬った、そうだよ、私は人を斬ったんだ。殺したんだ。この手が、この手で、はっきりと。
「この、この手で、……っ腕を、ひと、ひとを、」
嗚咽混じりの自分の声がギュッと掴んだ原田さんの服へと染み込む。ごめんなさい、汚して、ごめんなさい。綺麗なままで居たかったんです、私はきっと。女を捨てると見栄を切り、無理を言って刃落としした刀で稽古をし、その結果がこれか。笑ってくれ、もう、笑ってくれ。いっそのこと、この汚い腕を斬り落としてくれ。
「もう嫌だ!!怖い、結局、私は!何一つ変わってない!!弱いままで、守られてばかりで!!夜になれば思い出すんだ、あの感触に、あの温さ、色、もう、……っ」
歯を噛み締め、拳を原田さんの胸に打ち付けた。ヒュッと途切れ途切れに酸素が肺のなかに入ってきて、呼吸がしにくい。これほどまでに泣いたのは、何年ぶりの事だろう。
「……紗良、俺の手は怖いか?」
その問いかけに、ふるふると頭を小さく横に振る。
「でも俺のこの手は、何十人も人を斬ってるんだぜ?今でこそ、もうひとりひとりの顔なんぞ覚えてねえが、それでも忘れられねえ奴もいるさ」
その声があまりにも悲しみに濡れていて、ゆっくりと顔をあげると、やはりその顔は辛そうだった。「昔の仲間だよ」私の頭を撫でては、そう小さく呟いた。
「泣いとけよ、今夜くらい。お前は無理しすぎだ」
「……」
「悲しみに紗良が殺されるなんざ、考えたくもねえ」
きっと、原田さんはそういう人を何度も見たことがあるのだろう。これほどまで泣いて、まだ止まることを知らないこの涙を止める気にもならないのは、この手がひどく優しいからだ。
「もう一度、顔あげろ」
「……や、です」
ひどい顔を晒して何とも思わない程の神経の持ち主ではない。そっと頬に手が当てられたかと思えばグイッとそのまま上へと半ば強制的に向かされる。
「なにを、!」
「いいか紗良。俺はお前の顔をしっかりと見た。だからよ、泣きたくなったら無理をするな、一人で泣くな、俺のところへ来い」
揺らぐことのない琥珀色の瞳とは反対に、その瞳に映る私の瞳が揺れた。ああ、それにしても堪らなく酷い顔だ。もう、
「お前の泣く場所は俺のところだよ」
貴方は、そうやっていつも優しい。夜を殺さずに包み込むような、そんな。その言葉にまた泣いて、汚く汚れた涙は原田さんの服の中へ。ぼろぼろと頬を伝う感覚が、心底気持ち悪い。
声を殺して泣いた夜は幾多もあったが、声を誰かに染み込ませて泣いた夜などここ数年一度もなかった。自分の弱さに嫌気が射す、なのに、止まらない涙をどこに捨てるべきかを、私は忘れてしまったらしい。いや、忘れたフリをしていたいだけなのかもしれない。
「……ん」
かなり冷え込む時期にあるにも関わらず、こんなにも温かい明け方は初めてだ。多少なり疑問に思いながらも、まあいいやと寝返りを打とうとしたところで気がついた。誰かの腕が回っている。
「……!」
顔を後ろに向けると、至近距離で顔があったことに目を丸くした。そしてよくよく頭を回していると、昨夜の事が思い出された。ああ、あのまま泣き疲れて眠ってしまったのか。自分の子供さに呆れながらも、こんなところを誰かに見つかりでもしたら、あらぬ誤解を受けてしまうと判断し、起こさないようにソッと腕から抜ける。
「目、痛い」
ぱちぱちと瞬きする度に瞼がへばりついているような感覚がする。確実に、自分の目が腫れている証拠だ。こんな眼を誰かに晒したものなら泣いたことが丸分かりになる。そうなる前にと身を切る風にぶるりと肩を震わせて、積もった雪の上にさくりと足を踏み入れ、井戸へと向かう。この季節の水程の冷たさならば、目の腫れが引くのもすぐだろう。さくり、さくり。目的地に到着し、桶に繋がる縄を引き水を汲み取る。血まで凍るのではないかと言うほどには、とても冷たかったが、瞼に当てると気持ちよかった。
さくり
雪を踏む音は、私以外のものであった。こんな明朝(辺りは真っ暗だ)に、誰が何の用なのだろうと振り返ってみれば、そこには。
「山崎、さん」
「……っ」
明け方の暗さに溶け込むような黒い忍装束を身に纏った彼が、切れ長の瞳が気まずそうに伏せたのは、紛れもなく私のせいだ。
溶け行く虚勢
由とするか、悪しとするか、
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