桜とともに | ナノ


31 伸ばされる手に櫛を刺す

人を斬った、人を殺めた。今でも手にねとりと纏わり付く肉を割く感覚に、人の血の生温かさ。
稽古を止めた。用がないときに部屋を出るのを止めた。先日千姫さんと君菊さんが来てからは、夕暮れになると待ち合わせ場所に足を運ぶ日々が始まった。そんな日々が2週間以上は続いた頃だ。

「今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。ほな、いつも通り準備お願いしやす」

渡された着物に袖を通し、白粉をつけては紅を引く。教わらなくとも、もうひとりで出来るようになっていた。
……あれ、帯ってこんなに長かったっけ。

「相変わらず綺麗どすなぁ紗雛はん。京言葉にも慣れてきまして安心どす」

紗雛の仮面を貼り付けて、にこりと微笑み礼を行った後に座敷へと向かう。また今夜も、あの人が待っている。


「やや、相変わらず愛らしいね紗雛の君」
「ふふ、ほんな事言うてくださるのは、お兄はんだけどすえ」
「いつになったら名前で呼んでくれるんだ?」
「いつでしょねえ」

ここ島原では、自分の馴染み客以外は"お兄はん"や"お父はん"と呼ぶというのが決まりらしい。ふふふと袖元で口を隠して微笑めば、「お前には敵わないね」と目の前の男は私の頬を撫で、もう片方の手から簪を私の掌へと乗せる。

「こんなにも受けとれまへん。逢った日から毎日やないどすか。昨日はお着物まで頂きましたし……」
「そうだね。その着物、やはりよく栄えてる。私の選んだ通りだ」

ホステスなどの人に貢ぐ男って、こういうタイプなのだろうか。だとすれば私のイメージからは結構離れるな。

「私はね、今はまだ無理だろうけど、ゆくゆくは落籍したいと考えてるんだ」
「ほんに……?」

「ああ」と頷く男に「わっちでええんどすやろか……」と控えめな言葉を紡ぎながらも、どうせは不可能な事だと考えていた。落籍す?"紗雛"を?そうなれば上の人を通さなければならないし、元々島原の人間ではないのだから無理な話だ。そんな無理な話を、とても嬉しそうに話しては、「じゃあまた明日」と嬉しそうに帰っていく。落籍するのが可能となるまで、紗雛がここにいるかすら曖昧なのに。

「えらい気に入られてますなあ」
「君菊姐はん、お父はんはどうしたんどす?」
「今は来ておりまへんえ。ところで紗雛、まだ今夜はおにいはんがお見えどす」

おや、珍しいな。一体どんな人だろうかと思いながら「ほな、行って参りやす」足を前に出したとき、「紗雛はんの姿を見るのも最後になりそうどすなぁ」後ろから微かに聞こえた君菊さんのこの言葉に少しだけ首を傾げる。
襖を開けた瞬間だけ、私は言葉を失った。

「……、どうも、紗雛どす。初見さんどすなぁ?」
「そんな堅苦しい挨拶は要らねえから、そこに座れ。紗良」

やめてくれないか、今この場所でその名前を呼ぶのは。「おにいはんどすか?おとうはんどすか?」と初めての人に対する決まり文句を微笑みながら言うと、赤い髪をした人は少し苛ついた様子で私の手を引いては、驚いたような表情を見せ、その顔はすぐに悲しそうに歪んだ。

「お前……っ、なんでこんなに痩せてんだ!千鶴が島原で食べさせてもらってお腹が空いてないらしいって聞いて、変だと思ったぜ」
「別に、普通どす」
「紗良!」
「おにいはん」

声を荒げる原田さんに対し、冷たい視線を向け、あくまで静かな声色で口を開く。

「ここは島原、わっちは今は紗雛としてお金も貰っております。"いい人"がおって、わっちを落籍したいと言うてくれている人もおるんどす。せやさかい、そんな名前で呼ばんといておくれやす」

軽蔑してくれ、でないと無理なんだ。あの感覚が手から這い上がって、私の首を絞めそうなんだ。今優しくされたら、それこそ私はみっともない醜態を晒してしまう。

「離し、」
「今すぐ泣きそうな女を放っておける男じゃねえよ」
「話の分からん人どすなぁ。ここで泣いて、どうなるんどすえ?」

泣きそうな弱い自分を隠してしまいたいのか、口からは汚い言葉ばかり。こういうのが言いたかった訳じゃない。そうじゃないのに。

「……時間を考えても俺の次に客はいねえな?」

黙って頷いて見せれば、私に有無を言わせぬ強い声で「なら、早く着替えてこい」と原田さんは言う。ああ、これは怒ってるなと当たり前の事なのだが、少しだけ怖く感じだ。


「……なんでいるんですか」

紗良君の姿で茶屋を出ると、原田さんが腕をくみながら背を壁に持たれかけて待っていた。「女の一人歩きは危ねえだろ」と言われても、今の格好は男だし、今までもひとりで屯所へ帰ってきていたはずだ。

「とりあえず、一旦戻るぞ」

私の肩を抱いたとき、原田さんの手が強ばった気もしたが、もう顔は見なかった。それよりも、私の汚れたこの腕を切り落としてほしかった。

「……悪かったな」

何に対してかの謝罪なのか、私には見当も付かなかった。何がなのかと尋ねることもせずに、ずっと黙ったままの私の頭を、肩を抱いていた手で撫でた。変わることのない優しさに、ずっとずっと言ってはいけないと言い聞かせていた四文字が、肺まで込み上げてくるような気がして、無意識に、そっと、その手を拒んだ。

原田さん、原田さん、ねえ、



伸ばされる手に櫛を刺す


  変わらぬ優しさを恐怖と思えば、
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