桜とともに | ナノ


26 嘘はいつでも誰かに優しい

平隊士の方々とお酒を呑んだ事は、多少なり苦い思い出となり脳裏に閉じ込められた。その中で、私がひとつ気にかかる事、"夜中に寺を出歩く幽霊"。人々が寝静まった後、足音がひたりひたりと聞こえるだとか、人影を見ただとか。とりあえずそんな話が多数あるせいか、かなりの噂となり平隊士の間を駆け巡っている。

「……いや、まあ別に怖いとかじゃなくて」

夜中にひとりでトイレへ向かうのに怖がるくらい子供ではない。ないのだが、どうも深夜と言うのは人の考えを深入りさせる傾向にある。見る必要なんて無いのに、むやみにちらりと視線を巡らせるのは、きっとこのせいだ。
どうして寺になんて屯所を移したんですか、と今更どうしようもない事を恨めしげに思う。
用を済ませ、早々と部屋に帰ろうとした。

(え、)

見た。見えた。ぼうっと何かが歩くような影。ほら、どうした私。用は済ませた。だから早く帰ろう私。足動け。はや、

「おい」
「ひ……っ!」

いきなり肩に手の感触。バッと振り替えると、見慣れた人物が目を丸めていた。

「な、んだ……。斎藤、さん、か……」

情けなくもヘタリと腰が抜けた私の手を、斎藤さんが慌てたように掴む。未だ激しく脈を打つ心臓を落ち着かせるように、少し冷たくなってきた風を吸い込んだ。

「……何の用ですか」

あくまで声色は冷静に尋ねても、腕を支えられている手前格好がつかない。そんな私に対し、フッと笑う斎藤さんには正直苛立ちが芽生える。

「なんですか」
「いや……幽霊が苦手か?」
「――――――っ!」

まるで子供に接するかのように発せられた言葉に、顔がカッと熱くなる。「別に、そんなのじゃないですけど」と顔を背けたのは、「そうか」と返ってきた返事に含まれているのが笑いという事に気付いているからだ。

「……何でこんな時間に」
「目が覚めたんだ。厠へ行く途中、挙動不審なアンタがいたからな」

わざわざ御苦労なことですね、と嫌味ったらしく告げる頃には1人で立てた。

「ただ、私は――――」

言葉が止まる。斎藤さんの肩越しに見えた影が、ふたつに増えていた。私の言葉が止まった事を不思議に思ったのか、視線の方へと振り返った斎藤さんの肩が揺れた。

「あれ?斎藤さん、幽霊が苦手だったりします?」
「……そんな筈ないだろう。俺は目に見えない物は信じぬ」
「いや、でもあれ思いきり見えてるじゃないですか」
「……。行くぞ」

静かに手首を掴まれたかと思えば、あろうことか斎藤さんはその人影の方へと足を進める。

「し、知ってますか斎藤さん。私のいた時代の心霊映像では、こういうのに興味本意で首突っ込んだ人物が恐ろしい目に遭う傾向にですね」
「……」

私の制止の声など耳に入らないのか、耳に入れないのか。そもそも何故私を連れていくのか。あれか、怖いのか。ならもう部屋に帰ろう。

「っ」

近づくにつれ鮮明になってくる人影。私よりはるかに夜目が効く斎藤さんは、何かが見えたらしく足が止まる。気になって小声でどうしたのか尋ねる。

「雪村と、山南さんだ」

とりあえず幽霊の類いではないことに安堵し、珍しい組み合わせだなと少し不思議に思う。きっと斎藤さんもよく似た気持ちでいるのだろう。

「……幽霊の正体は、山南さんという事か」
「あれ、噂の事知っていたんですか」
「ああ。梅戸から聞いてな。……行かなくとも良いのか?」

そんな疑問とは反対に、手首を掴む手の力が強まったことにクスリと笑う。そんな私に「何故笑っているのだ」と聞く辺り、無意識なのだろう。怖がりだな、まったく。

「……私は、優しくありませんから」
「?どういう、」
「そんな事ないです!」

雪村さんが山南さんの手を取り、そう言ったのが聞こえた。手の温もりを確認して、心の底から人間だと、山南さんは人間だと。流石に表情までは見えないが、少なくとも山南さんは嫌な顔はしていない。
とりあえず、2人からすれば死角となる柱の影に、斎藤さんの手を引き座り込む。

「椎名、さっきの意味は……」
「あの言葉で分かるでしょう?」

耳を澄ませなくても聞こえてきた。しっかりと手を取り、真っ直ぐと向き合っていた雪村さんの姿を思い出し、つい自虐的な笑みが漏れた。
私は、できなかった。あの夜、堕ちていく山南さんの手を取る事も、山南さんと向き合うことすら。

「私だって、ああいう言葉くらいいけらでも吐けますよ。ただ、違うんです。私の言葉は薄っぺらいですが、雪村さんはそうじゃありません。心の底からの本心です。飾らない、真っ直ぐな言葉です。偽善者のような言葉を、あの人は、本心から口にする」

だから、あの人が苦手なんだという言葉は胸の奥に押し込んだ。自分が、余計に醜く思えた。

「私ならきっと、"そんな事を気にする時点で、人間らしい"とでも言ったでしょうね」

普段の山南さんならそういう言葉の方が好きだと言う。気休めの偽善染みた言葉を嫌う人だから。しかし、今はそうではないのだろう。心から、そんな気休めの偽善な言葉を望んでいた。だから、雪村さんに言ったのだろう、自分の気持ちを。

「……人間、ですよ。あんな感情がある限りは」

機械か人間かも分からなくなった人間は、いつか壊れて動かなくなるだろうか。それとも壊れて尚、自分が人間だと思い込んで動き続けるのか。プログラムされた言葉を、プログラムされた表情で吐き続ける、そんな人間。

「……俺は、アンタの言葉が良い」

顔を向けると、真剣な顔付きの斎藤さんがいた。

「傷だらけになろうが、真実だけを見ていたいと思う。ぬるま湯の妄言に浸るつもりはない」
「……でも、地獄の奥深くにいるときに、蜘蛛の糸が一本降りてくると、縋りつくでしょう?」
「その蜘蛛の糸は、本当は無いんだろう?」

曇りのない双眸が、私の瞳を見詰める。繋がれていた手から伝わる温度に、綺麗な人間だと、そう思った。

「斎藤さん、知ってますか」
「何だ?」
「生きている人間が、一番怖いんですよ」
「ああ。それくらい知っている」

はは、平成も江戸も、そこは変わらないのかと目を伏せて苦笑した。



嘘はいつでも誰かに優しい


  だから人は嘘に縋るのだろう、





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