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う そ 尽 き
極彩色の明かりを吸い込んだ雨粒が窓に張り付いて、冷酷な大きさのベッドへ影を落とす。つるつると流れていくそれを指でなぞった。
「じゃあ、おやすみ」
大人が子供におやすみを言い静かに去るのは、一ノ宮家では当たり前なのだろう。もちろん寛も無意識のうちにそれをする。この挨拶をしてドアを閉じた後は、隣にある自分の部屋に帰るのだ。しかし、隣とは言えそこまでには距離がある。
中等部の半ば頃に父が用意してくれたこの家は、一人暮らしするには広すぎた。部屋はいくつにも分かれ、それぞれが素晴らしい夜景を見るための大きな窓を所有している。この界隈でも有名なホテルのスイートルームのためそれは当然のことだったが、空間を持て余した私は一人になる度に背中に冷気を纏うような寂漠に襲われるのだった。
「…ひろし、」
「どーした」
閉じられた扉が開く。
かつて私は寂漠が背後を襲うことが恐ろしく頻繁に寛の部屋を訪れていたが、いつしか、寛が帰宅してから就寝までの時間は二人共私の部屋で過ごすようになっていた。コーヒーを飲みテレビを見たり課題を手伝ってもらったり映画を観たりするこの時間は、一ノ宮家にいたときにも父と暮らしていたときにも味わったことのないものだったため未だに擽ったい高揚感がある。
そのため尚更この「おやすみ」の習慣が冷たく思えるのだ。
「…観覧車が、見たい」
なんと発して良いのか見失った口は金魚のようにただぱくぱくと空気を食むばかりで、ようやく発した言葉はいつものものだった。私の寝室からは見えない観覧車が見たい、という何とも聞き苦しい甘え言葉だ。
「はいはい」
私が黙るとすぐに頭を撫でて「大丈夫」と笑う人間だから、隠しきれない私の感情に、寛はとっくに気付いているだろう。この推し量りを確かなものにするように、寂しいなら寂しいと言いなよ、と笑っていた。
「あ、待って。電話」
ピピピ、というだけの電子音は仕事仲間からのものだ。寛は、香宮で働いている。社長である父は会えない程忙しいのだから、その下で働く寛も忙しいはずなのにほぼ毎日帰宅できるのは何故だろうと思っていた。
多忙で子育ても儘ならない父を見兼ねて私を迎え入れた一ノ宮家の次男である寛は、父の采配で隣に住み、父の代わりに私を見守っている。確証はないが、父の事だ。それも仕事としているのだろう。だからほぼ毎日帰宅できるのだろう。
さりとてこれらは単なる憶測でしかないけど、とドアのすぐ向こうの柔らかい声色に不快感を抱きながら呟いた。
(…電話、千鶴さんだろうな。だからあんなに笑うんだ)
観覧車を見たいわけではない。それは寛も知っているだろう。そうじゃない。本当は、こんなことを言わなくても一緒に部屋を温められれば、今望むのはそれだけなのに。背後を襲う寂漠から私を守るのは、寛なのだから。それでも。
(…もう、行かないようにしなきゃ、)
通話中に寝てしまったことにしよう。無理矢理連れていくことは流石にしないだろう。
最後につつ、と指を沿わせた滴は、なぞられまいと走って逃げた。