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水 の 網 膜 の こ と
水面から少し下、硬そうな表面の下はいつだってやわらかく動いていた。
シェリーの弟のハリーが、海を泳ぐ。少しどきりとする深さまで来てしまった私を心配して、金色の豊かな毛と大きな体を水に浮かせながら迎えに来る。そして私の横について、掴まれとでもいうように。
「ハリー」
私はそのたくましく温かい胸へ片腕をかける。それでもやはり自分よりは幾分か小さなその体に負担をかけまいと少しだけ足をばたつかせた。ときどき振り返りながら順調に進んでいく。ハリーもシェリーも、いつだって優しかった。人間は彼らを選ぶことができても、彼らは人間を選ぶことはできない。そういう考えが私を苛んだ結果、彼らに人間の理不尽さを見せないなら、と落ち着いた。彼らの考え方は、私たちと何等変わりはない。しかしいつだって素直で正当だった。
「心配してくれたの?」
身震いして散る水しぶきすら、愛おしいものになる。ハリーは私と頬を合わせるように近付く。私はそのまま腕を回した。確かな、存在感。耳元でフン、と大きなため息が聞こえた。
「そっか、ごめんね」
何かが私の中で流動する。かたく、強いくせに、すぐ粉々になりそうなそれが私の内側をゆっくりと撫でる。炎に舐められたかのように焼けつき、冷たい風に囁かれたかの如く痺れる。
涙が水を含んだ金色の胸毛に同化していく。嗚咽の音は、彼が知らないふりをしてくれた。
ベランダから見下ろす朝日は毎日表情が異なっていて、特に歴代の記録を塗り替えるほど綺麗なものに出会えた日はその一日を豊かに過ごすことができた。
脱力した腕を勿体ぶるように、それなら撫でろと言わんばかりにシェリーが鼻で跳ね上げる。今あなたが柵の間から顔を出しているのは、犬の視界は白黒だというけれど今日の朝日が特別綺麗だと思っているからだろうか。それとも、下でハリー達が遊んでいるからだろうか。こんな答えがわかりきったこと、私らしくない。
「天音ちゃん、ご飯ですよ」
いつもなら電話で呼び出されて着替えをするところだけれど、今日はやけにすっきり目覚めていた。見下ろせば寛さんとハリーはまだ庭で走り回っている。ジーンズの裾を捲っているあたり、朝露が出ているのだろう。白い息を吐きながら私はガウンを羽織り部屋を出た。
古い映画に出てくるような深い色のフローリング。等間隔で続く縦に長い窓から差し込む朝の白んだ光にシェリーの毛がより輝く。階段を降りてさらに長い廊下を2回曲がると、反対側からハリーが走ってきた。案の定、足は濡れて床に足跡を作っている。
リビングからハリーを呼ぶ声が聞こえた。少しどきりとする。それは、波が首のあたりで動く恐怖感のような、考査が終わったときの安心感や期待に連なる緊張感のようだった。
「ハリー、足を拭かなきゃダメだろう」
優しいしかめっつらをして、煙草を吸いながらハリーを呼び付ける。真っ黒な肺から吐き出した声で、興奮の冷めぬハリーをなだめなから。
「おはよう、ひろし」
「お、珍しく早起き」
いくら表面が硬そうだって、中身までそうだとは限らない。水だって、やわらかく動いている。そういうふうに教えてもらったと言っていたことが今でも頭に残っている。真っ黒な肺から吐き出した声で言った言葉。
「今日どっか行こうか」
「…どこ?」
「お好きに」
「じゃあ、海。シェリー達も連れて」