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涙 色 の 微 笑



「久しぶり、天音」

 普段と何等変わらない千鶴さんに、私は戸惑う。罪悪感も劣等感もないのだろうかと呆れた目でしか千鶴さんを見れないでいた。

「あとで話したい事があるの」


 それだけ言って千鶴さんは玄関を通りすぎ、裏へ回った。その後、起こしてしまった義親達と談笑をしていても彼女が南棟へ入って来る気配は全くない。もはや猜疑の眼でしか千鶴さんを見れなくなっていた。
 久々に自室へ戻ったが布団がしまわれていたため客室へ行くことにした。車内で聞いた千鶴さんの言葉を思い出して書き置きをする。どんなにちゃちな嘘でもいいから、逃げてしまいたかった。両親の寝室で寝ます、と書けばさすがに来ないだろう。そもそも二人きりでなんて一体何を話すつもりでいるのだろうか。私たちは、言ってしまえば寛の婚約者と寛の上司の娘という関係でしかないというのに。
 落ち着きを精一杯表した文字で右下に天音と書いたそのとき、控えめなノック音が響いた。反射的に息を潜め居留守を決め込む。

「天音、いる?」


 こそっと、聞こえないくらいの声で呼ばれる。息に重ねただけのその声はこれから悪いことなど何もないと言うように、女の子同士の秘密話とでも言うように、私の想像するよりかわいらしいものだった。だからといって疑問が解けるわけでも猜疑心が拭われるわけでもないけれど、悪い話はされないような気がした。
 ペンを置き、紙をぎゅっと握り潰し、引き出しの中へ投げ入れる。ぎこちなく千鶴さんを招き入れ、暖房をたき、猫足のソファに並んで座った。隣に座った千鶴さんにブランケットをぐるぐる巻きにされ、動くな喋るな聞けと言われているようで、猜疑よりも恐怖が心を侵食していく。

「天音、あなたは家の都合に振り回されすぎだわ」
「それは、父が私を守るために、父なりの…、都合って何です、父も私もそれで後悔したことはありませんし、それは」

 不躾なお節介です、と一口で言い切る前にぐ、と鼻を摘まれた。そうじゃないの、と息ばかりの低めの声が、床を這う空気を叩く。暖房の音だけが目立つ程静まり返ってようやく、自分が激情に任せて言葉を選ぶこともせず胸の底から出てくるがまま投げ付けていたことに気付いた。
 ごめんなさい、と謝る声が小さくなる。千鶴さんが何を言いに来たのかますますわからなくなった。そんな環境で聞いた話は全く現実的でなく、認めがたいものだった。

「…寛さんと結婚するのは天音なのよ」

 ちゃんと聞けと両頬を押さえられているものの、私の思考はまるで水の上を泳ぎ回る油のようで、理解するまで時間を要する。


「一生事も決められるなんて、さすがに嫌だろうって思って、寛さんや私たちは黙っていたの。でも、あなたは寛さんが好きだっていうじゃない」
「…どうして知って…」

 私が濁した眉を読みながら千鶴さんは静かに柔らかく言葉を続けた。


「私の弟の彼女がね」
「…あっ、あのばか、あ」

 涙声で意味のない「ほんと?」を言い続ける私に、千鶴さんはブランケットに包まれた体を優しく叩いて何度も「ほんと」と答えた。

 身体が火照り、ブランケットを脱いでしまいたいのに。千鶴さんはいつまでも解放してくれる気配はない。

「逆に傷付けてしまって本当にごめんなさい。辛かったでしょ、ごめんね」


 私は無理矢理腕を出し、千鶴さんの背中に手を回す。顔を埋める一瞬前、愁眉が開かれたのが残像として目に焼き付いた。


「天音は成長したね」
「…どこが」
「感情を出すのが上手になったわ」
「…今日だけ」

 いつの間にか空は白んでいた。電気を消すと肌や髪が青い光に包まれる。そのまま何にも逆らわずに目を閉じることにした。

 飛び方を教えてもらわなかった鳥は本能はあれど飛ぶ勇気は持たないことに気付きながら。









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