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泳 ぐ た め の 唇



 私は天井まである長く大きな窓から、鉛色に飮み込まれ重く沈んでいる地上を見下ろしていた。本日曇天。しかし、雨が降ろうが、そのせいで沈んだ冷ややかな空気が充満しようが、卒業式という日程に変更はない。
 ピンクゴールドの携帯が唸り「一ノ宮 寛」の文字が浮き出る。それに続いて件名の"送っていくよ"が流れ終えたとき、閑散とした空間にノックの音が響いた。脇のファスナーを上げながらドアを開けると、見慣れた姿をした寛が立っていた。あえて普段との相違点を挙げるなら、ネクタイが地味になっていることくらいだろう。寛が差し出した手に、私は使用済のタオルを押し込んだ紙袋を握らせ、コートを羽織り、ローファーを穿く。

「天音、朝食は?」
「まだ」
「どこにする?」
「どこでも」


 エレベーターで一階まで降り、いつもどおり客室係の松岡さんに紙袋を渡すとそのまま駐車場へ向かった。朝だというのに、視界は人工的なオレンジ色を強調する。暗い空と白熱灯の組合せは、嫌いでなかった。
 私と寛は黒光りするノブに指をかけ重厚音に挟まる。二人を気遣うように、静かに重たくエンジンは動いた。

「卒業おめでとう」
「…ありがと」

 オレンジ色の光を燈している街灯が等間隔で並ぶ。その間を直進する車内で私は精神的高揚を覚えていた。
ホテルの白熱灯にしろ、雨空の街灯にしろ、鼻の奥がツンとする凛々しさを与えてくれるこれらは、もしかすると自分と因果があるのかも知れない。過ぎった覚りに、馬鹿馬鹿しいと終止符を打ち目を閉じた。

「天音のネクタイはすぐなくなるだろうって千鶴が言ってたよ」
「誰が私のを欲しがるのよ」
「過剰な謙遜は嫌われるぞ」
「…うるさい」


 私達の制服のシンボルは、その上品な深緑のネクタイだった。ネクタイの裏面には所持者の名前が金糸で刺繍されている。それを利用し、恋人達が交換したり、卒業式で尊敬する先輩から貰うといった文化があった。また、生徒会執行部員の制服は被服部によるオートクチュールであり、ネクタイの名前の刺繍も銀糸だっため希少とされていた。
 卒業式の今日も私は一般生徒とは違う制服を纏い、予行式と同じようにステージの横に突っ立っていなければならない。



「あまねー!」

「…つかさ」
「あれー意外。天音のネクタイ残ってる!」
「つかさも」
「それがね、ねえちょっと、見て」

 高ぶった感情のせいか、走ってきたせいか、頬を上気させたつかさは自慢気にネクタイをめくった。そこには金色で「Ryo.T」と縫われている。稜か、と私は安堵した。
当然だった。当事者は自らが基準だから当事者なのだ。

「高等部からはこれ使うんだー!」
「…おめでと」
「天音は?ん?」

 嬉しさを堪えきれないというように緩んだ顔のつかさは、私のネクタイをめくり目を蕩けさせる。もう私は、つかさと目を合わせなかった。


「はーん、まあね、そりゃ交換できないね」
「言わないでよ」
「いいけど、なんで?知られたってよくない?」
「…許婚が、いるんだって」




「ごめん、遅くなった」
「構わないけど、…つかさちゃんはいいのか」
「うん。そのままカナダだって」


 空気が圧された重厚音が内臟を震わせる。寛は吸っていたタバコをぐしゃりと潰し、差し込んでいたキーを回した。僅かに昇った紫煙も目で追う間もなく空気に溶け、いつの間にか雲の間から鋭い光が差し込み、傘の花たちも枯れていた。

「天音、告白されたって?どんな子だったの?」
「好みじゃない」
「そ」
「…そうよ」
「そっか」

 私は俯いて、握った携帯のディスプレイに浮かぶ数字を眺めていた。そっか、から2分が経った今も、最後に発した自分の「そうよ」と、その前の重みの分からない「そ」が頭を行き来して消えない。

 "そ"、"…そうよ"(本当よ)、"そっか"、(本当だもの、)…。
 寂然とした空気は今まで感じたことがないほど感覚を鋭利なものにしていた。寛が買った熱い紅茶を包んでも、私の手の先は冷たい。








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