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 食欲を誘う匂いを孕んだ温かな湯気がふわりとキッチンを漂って鼻の先まで届いた。ソファに寝ていたらしい体は、窮屈なかたちで固まっている。わずかに軋む体を起こすと、かけられていた羽毛布団が落ちた。窓を見れば、もう陽が赤く燃えている。

「やっと起きた」

 キッチンからエプロンをつけたミシェルがゆったりと歩いてくる。こういう空気に慣れていなくてほうけてしまった私の思考を全て読んだらしい彼は笑みを含んだ。彼は、誰かが巡らせた思いを拾い集めるのがとてつもなく上手だった。それは、安心できると同時に恐怖を抱くときもあるということだけれど、今は前者。

「…寝てた、あたし」
「ああ、な。起こすに起こせなくて。今アルトたちは買い出しに行ってるよ」

 大胆に切ったおおぶりの野菜たちがごろごろ入ったカレーが、女の柔肌と戦闘機にしか触ったことのないような手に握られたおたまで掻き混ぜられている。
 巡らされた思考の流れは滅多にないほど卑屈なものだったけれど、今は飽和する香りに気持ちがほぐれてしまうのを止められなかった。
 どんなことをするのか上辺だけの知識で捻り出した計画をランカちゃんに持ち掛けたのは言うまでもない私で、やはり知識は正しくなかったらしく、こんなバレンタイン初めて!と目を輝かす彼女と、顔を逸らして密かに笑みを浮かべたアルトを見たのは半月前のことだった。
 ギャラクシーにいたころは、CMに出た製菓会社からチョコレートをどっさり貰ったけれど便乗して騒ぐことはなかったから、ホームパーティーでもすればきっと楽しいと思ったのだ。

「…なんで好きなの?」

 はかりごとの好きなこの人が今日もこんな調子だとは思わなかった。今日は純粋に楽しみたかった私が纏う空気も読める人間だと思っていたのに、たいてい私の思う通りに動いてくれることはない。それが無意識ではなく意図的に行われているのだから尚更腹立たしかった。

「…わからないわ」
「それ、嘘だろ」

 フローチャートの矢印の先に存在する、私が蓋をしていることまでお見通しなのは彼の性分として流すとしても、目を逸らす私にそれを叩きつけないでほしい。

「さあね」

 手渡されたレモネードすら毒入りのような気がしてくる。とびきりの笑顔でごまかすにも、目の前でにやつく彼にとってはサービスにすらならなかった。

「俺が培ってきた経験をナメられちゃ困るね」
「…不純なそんなの、自慢にもならないわ」

 忙しなく動き回るアルトと、懸念の顔を浮かべるランカちゃんを見ていて私がいつも感じるのは、きっと彼らの関係は親子のようなものだろうという漠然とした安堵感だった。ミシェルとクランにも同じことを思う。
 誰も踏み入れることのできないように見えるのは、二人が超越したなにかで繋がっているからなのだ、きっと。血縁があるかのように、庇護に近いもので互いが互いを包んでいる。

「…私は私としてでしか張り合えないわ。あの子は愛情を知ってる」

 頭の中で蓋をしていた言葉が、口に出すことでするりと抜け出しはっきりとした輪郭を持った。今さら押し込むこともできない。目の前の男はあきれたようにへらへらと笑っていた。いつもに増して、張り倒したい顔をしている。

「…でもね、自分の理想を追い求めないで私を私として見てくれるから、好きよ」
「へえ。結局自分から言っちゃった」
「あ」

 いっそ自殺でもするつもりでレモネードを流し込んだ。この場の空気と毒で死ぬ苦しさはどちらがマシなのだろうか。大量のなんちゃってお酒と共に、早く帰ってくればいいのに。





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