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 この壁から、反対側の窓までの距離はたかが知れている。けれど目が覚めた瞬間に孤独だった幼いわたしにとって、その距離はとてつもない大きさの未知と恐怖でしかなかった。
 街のネオンはわたしと仲良くする気なんてないだろうに図々しく窓から入ってきたし、冷蔵庫の背中はわたしをなぐさめるわけでもなく独り言を言い続けていた。わたしはそれらにいじめられないように静かに膝を折って、だけど、時計の秒針はわたしの耳と溶けてその数だけ胸の奥へ溜まっていった。
 いつも帰りを待っていた。時計の優しさは、残酷だった。今が何時で、あとどのくらいで帰ってくるのかを考えるたびにわたしの胸に溜まった秒針の脈がリズムを狂わせていきそうだった。
 まだ身長の低かったわたしは、月に冷やされた冷たいソファに埋もれて、整頓された空間がこんなにつまらなく孤独なものだったかと思考を巡らせた。
 真っ暗な部屋は、高い場所には何もなくてあの身長だけが部屋の均衡を保っていたのだと気付く。

 母は、上品な口元が印象的で、わたしは母と同じ色の髪が自慢だった。父は、と考え、停止する。どんな顔で、どんな声で、どれくらいの身長で、優しかったのか厳しかったのか、わたしが記憶の末裔だというのに、かけらも覚えていなかった。わたしが覚えているのは、些かも似ていない黒髪のお兄ちゃんと暮らし始めた新しい世界。


 あかい瞳が覗き込んでくる。ネオンの光でガラスのように艶めくそれは、幼いころ大事に集めていたビー玉のようだった。目の奥が引き攣り、吐き出す息が熱をもつ。
 わたしは泣いているのだろうか。抱き寄せられた胸からは鼓動が聞こえない。かれはもう、人間ではないのだ。わたしの目の前に広がった暗闇は冷たいけれど涙を吸い込んでいく。膨張するように鈍い音をたてながら、わたしの耳はひさびさに秒針が脈をうつ音を聞いた。






090906



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