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 金色のノズルを捻ると、勢いよく水は流れ出した。早朝の静かな洗面所が水の音で満たされる。この音で起きてしまったかもしれないと、暗い寝室の方を覗いても動きは見られず安堵した。
 設置された化粧台の鏡に再び向き合い、目元にできたクマをなぞりながらため息をこぼす。大量に流れ出ている水を手ですくって顔を洗っても、疲れきった顔も体も喝が入るわけでもなく、洗面所に鳴り響く水の音に意識を奪われそうになる。

 シェリルさんとの仕事は嬉しい反面、複雑な気持ちを伴った。目の前で目まぐるしく表情を変えるシェリルさんは「銀河の妖精」で、私の遥か前を進んでいく。追い付こうとする切迫感や緊張感が、夜明けの倦怠感を生み出すのだ。そして、向き合い過ぎることで浮き彫りになっていく虚無は増す一方。時折責め立てる胸騒ぎに心が潰れそうになるのを必死に耐えるしかできず、時間が、流れ出るこの水のように瞬く間に過ぎ行くことが何よりも惜しかった。

「シェリルさん?」
「あら、ばれてた」

 どこかへ飛びそうになっていた意識が呼び戻され、私の目が鏡に映された眠たそうなシェリルさんの虚像を捉えると心臓がどくりと脈を打った。背後の気配に気付くことができるのは、シェリルさんがいかなるときもシェリル・ノームであろうとするからだ。鏡越しに微笑みあって、水を止めて振り返る。

「昨日は楽しかったわね」
「はい」
「司会のエロオヤジ、どうにかしたいところだったけど」

 そう言う口角が、にっとあがる。シェリルさんはいつもそうだ。その意志の強さを表す眉や甘ったるい碧眼の奥には必ず普通の女の子が潜んでいる。はかなくて健気で生意気な柔らかい少女が。

「…口紅、私が塗っていい?」

 シェリルさんはあかいルージュを開け、カキンというこなれた音を出した。ぬたりと光りを反射する。仕事はいつも、メイクさんにしてもらっているから、移動用もしくは滅多にないオフ用なのだろう。見た瞬間、シェリルさんのだとわかるその色に強い憧れを抱いた。

「大丈夫、器用な方だと自負してるわ」
「…でも、っ」

 心臓の音が聞こえてしまいそうなくらい近くなった体や顔に、前言通り器用な手つきでルージュを唇に滑らせていく。半開きになった口を情けなく思いながらも、平常心を保つことに精一杯だった。シェリルさんは鼻の先がツンと細くなっていただなんて、知りもしなかった事実とあまりに近い距離になぜか気恥ずかしさを覚える。塗り終わるとシェリルさんは満足そうに笑い、肩に手を置いてまじまじと顔を見つめてきた。

「紅いのも似合うわ」
「え…そう、ですか?だって私童顔で…」
「そう、童顔だけどね」
「やっぱり…」

 確かに、私は童顔で、メイクなんてしてるのかしてないのかわからないようなものしかやったことがなかった。鮮やかなものは浮いてしまうから、あまり好きではなかったはずなのに。

「でも、赤、似合うと思うわ」
「ほんとですか…」

 これ以上の称賛をシェリルさんの口から紡がれるのが貧乏性の私には勿体なくて、心は照れ隠しで痛みだす。肩に添えられたシェリルさんの手は酷く温かい。脳内で鳴り響く雑音と表現すべきでない感情を昇華させてあげるべく、そっと、紅い唇を近づけた。

「…ふふ」
「えへへ」

 一瞬の沈黙に、金色の蛇口からしずくがぽたりぽたりと零れ落ちる音を聞き付けた。今すぐ涙を流したい私のかわりに泣いているようだと、思った。




090629



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