txt | ナノ




「精神的負荷による突発性難聴だと思われます」

 ドクターがわたしを覗き込む。
 わたしの耳はまるで水に浸かったかのように音を拒絶した。声、足音、息やらの生活音はわたしの鼓膜に触れてくれなくなった。
 ぼうっと、すべてが濁ってしまうのだ。透き通っていると褒められた自分の声も濁ってしまったし、駆け付けてくれた彼の声も遥か遠くで濁ってしまっていた。
 聞いたものは揺れて遥か遠く、喋るものは響く。それはもはや独り言だった。その不安と恐怖と不快感は、確実にわたしを阻み、諦めたわたしは喉まで閉じてしまう。


「元気か」


 カーテンが開けられたことに気付かず、ロックオンが来たことにも気付かなかった。
 本から顔をあげると、見慣れたトレーを運ぶロックオンと目があう。くしゃりと優しく笑っている。疲れているようにも見えた。
 心配しているけれど。今が一番大変だから自分を大事にしてほしいけれど。ちゃんと寝てほしいけれど。聞こえないのに、わたしはロックオンの話を笑顔で聞いたり、目があう度に相槌をうったり、ときどき首を傾げたりなんかしてもっともっととねだる。こういうのを、相手の弱さに付け込んでいるというのだろうけど。


「それでアレルヤがティエリアをスルーして。アレルヤは無自覚なんだが、見てたほうとしては意外な展開だぜ。まあ、アレルヤだから仕方ねぇっていえばそれまでだけどな、あの刹那が、少しだけど、笑ったくらい、可笑しくて…」


 ロックオンは思い出したように時計を見て、わたしの頭を軽く叩いて立ち上がる。立ち上がるロックオンに対してわたしが今どんな顔をしているか自分でもすぐにわかった。わたしを振り返って、笑う。


「ほらハロ。…特別」


 ハロをわたしのベッドの上に置いて、ドアの向こうに消える。遮断は世界の幕閉じだった。
 ハロはわたしの腿の上を跳ねる。

(ねえハロ。ロックオンはちゃんと寝てる?今、世界はどうなってる?みんな、生きてる?)

 ここまで卓越した機械なら、人間ごときの感情を文字にできるのかもしれない。根拠はないがハロを抱き抱え何度も繰り返した。
 そういえばわたしの耳が外界を遮断する前、ロックオンはわたしに言ったんだった。何度も偽の名前を呼んでそれから、生きろよ、死ぬなよ、好きだから、って。
 もうその時と同じ声が聞けない今となると、そのフレーズがやけに鮮明に巡る。大丈夫、まだ思い出せる。あれは、低くて掠れてて怒ってて泣きそうでいつも以上に優しい声だった。
 ドクターが書いた精神的負荷さえ解決すればわたしの耳はまた音を取り戻してくれるだろうか。ではわたしはなにを苦痛に思っているのか。なにを迷っているのか。今まで悩んだことはたくさんあったし、辛いのなんて茶飯事だった。なにが今回の引き金になったのかわからない。
 涙を拭う皮膚の擦れ合いにすら音があったと気付き、わたしはさらに強くハロを抱きしめた。



 包帯で顔の右側を被われたロックオンを覗き込み、わたしは手を握る。聞こえなくてよかったと初めて思えた瞬間だった。苦しそうな息の音や点滅する装置のけたたましい叫びを聞いたら、きっとわたしは泣きわめいてしまっている。
 唇が瞼に触れると、薄いブルーの眼がわたしをとらえた。


「   」


 ぱくぱくぱく。一文字ずつ、わたしのコードネームを象る。


「   」


 わたしは、いつもどおり記憶の中からそのひとの声を呼び出してみようと試みた。怒っている声じゃなくて、楽しそうな声じゃなくて、嬉しそうな声じゃなくて、哀しそうな声じゃなくて。ロックオンはどんな声で今、わたしを呼んだのだろう。
 確かなものにしたいと思った。曖昧であやふやで、消えそうなのを心配するのはもう懲り懲りだった。それは、わたし自身を咎める。
 どんなに悲しくても、どんなに辛くても、どんなに楽しくても、思い出は過去でしかなかった。過去を完全に再生できないと、幼いころには理解していたのを思い出す。わたしの温かい家庭。わたしの優しい友人。わたしの明るい世界。失ったことを受け入れるのが怖くて、でも切り離していたつもりだった。つもり でしかなかった。
 これだった。
 今すべきことをわたしは理解した。ロックオンの声を聞いて、わたしの声を聞いてもらう。聞かせたいことも、聞きたいことも決まっていた。わたしの悩みはすでに世界中の人が悩んだもので、わたしの迷いはすでに過去の人が迷ったもので、解決策はすでに用意されていた。
 頬に添えられた手に、手を重ねる。溢れ出した感情を、かさついた親指で拭ってくれる。口を開いたわたしに、青い眼が少し震えた。すべての動作が無音で、まるでわたしたちだけ時間が止まっているみたいだった。わたしの口からは、文字になりきれない文字が漏れた。やっぱり無理なのかとさらに涙が零れる。でも、期待を孕んだ青い眼にはちゃんとわたしがうつっていた。ロックオンは、ちゃんとわたしを見ている。


「―…ン、ロッ クオ、ン…!」


 途端、わたしの耳は音を取り戻す。徐々にだが確実に。最初に聞こえたのはわたしの手がロックオンの手を強く握った音だった。かさ と乾いた音だった。

「…ニ、 ル だ いすき…っ」

 流れ込んでくる懐かしい音や知らない音までをも飛び越えて、まっすぐわたしに届いた念願の声。


「俺も、大好き」




080403
300年後だったら難聴くらい
たいしたことないだろうけど…



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -