足りない。まだ足りない。


月明かりだけが照らす真夜中の屋上、何度も何度も振りかざしたカッターで手首に幾筋もの線を刻んでいく。
青白い月に照らされた赤は闇とのコントラストで不気味に輝き、じわじわと古いコンクリートのひび割れた隙間を埋めていく。

彫刻刀や鎌は使わない。あれは鋭利過ぎてうっかり肉を削ぎ落としてしまいかねないからだ。程よく切れ味が悪くて、程よく切れるカッターの刃が一番丁度いいというのが僕がこの数年の内に学んだことだった。
勿論、危険なく傷を付けるだけならハサミや――それこそ割れたCDケースなんかでも事足りるのだけれど、ハサミは溝のように太い傷口が出来上がってしまうし、刃物ではない破片は傷口が美しくない。


「…………あ……」


考えごとをしていたら、腕にそれまでよりも大きな痛みが走って視線を下げる。
同じバランスで刻まれた傷口に、一つだけ大きな赤い線が混ざってしまった。肘の関節に近い位置、横に裂けた線からは次々に赤い液体が溢れてそれが床を、服を、無残にも染め上げていく。

純粋にそれを綺麗だと思った。

そして同時に、自分の中にもそんな赤い命の液が流れていることをどこか不思議に感じた。どれだけ道を外れようと、どれだけのことを成し遂げようと、僕は結局ただの人間なのだ。赤い血にそれを思い知る。


「……ほら見ろ、だから言ったじゃないか」


この人殺しの悪魔め、何度言われたか解らない獲物の台詞は、それでも僕を否定するには足りない。本当に悪魔だったら面白いとそう思ってみたけれど現実はどうだ、泣きながら臓物を散らした獲物と僕は何一つ変わりはない同じ生き物だった。ただ弱いか強いか、それだけの差しかそこには有り得ない。


「ひひっ、残念でしたね……僕はもう、奪われる側にはならない」


ぱたん、と仰向けに寝転がって、腹の上に置いた腕がまるでその部分だけ雨に濡れたようにぐちゅぐちゅと赤く染まる頃、静かな屋上へと荒々しく扉の開く音が木霊した。


「どこに行ったのかと思えば…君はまたこれかい。バカの一つ覚えみたいに、全くよくやるよねぇ」

「……なにかご用で?用がないのなら消えて下さい、目障りですから」


視線は渡さずとも予想通りの声が予想通りの場所から聞こえてくる。侵入者――風間望はそんな僕を見下ろして、わざわざ僕の視界に入る場所まで移動してから溜め息を吐いた。ああ、僕は客観的に見たら一体どんな姿をしているのだろう。観察してみたいな。


「死にたいのかい?」

「まさか。死にたい訳がないでしょう」

「でも、放っといたら死ぬかもよ?」

「その時はその時ですね、僕は死にませんけれど。だって、死にたいのなら初めから死ねるように切りますもの」


こんなカッターじゃなく、もっと鋭利な刃物で。血管ごと縦に切り裂いて、それでお終い。大体死ぬのが目的ならこんな効率の悪い方法じゃなく、首を裂くなり飛び降りるなり――ああ、今度獲物がどれくらいで出血死するのかを観察してみよう。


「後片付けをサボってこんな、…日野に見付かったらどうなるか」

「あなたが、」

「……なに?」

「あなたが近くにいるような気がしたので、後片付け、やっておいてくれるかなって」


そう言って、血の気のない青白い顔で笑ったら。風間さんはなんだか酷く間抜けな顔で僕を見下ろしたまま口をぱくぱくと動かしていた。


「……君、馬鹿だろ」

「ええ、今更知ったんですか?」


赤い赤い血の色。人間の証。

目の前にいるこの人にも赤が通っているのだろうか。無性に気になって、力の抜けた指にカッターを握り直せば、それに気付いた風間さんはそれはそれは美しく笑った。


( 生者にのみ赦された色 )



――――
20120809


残念だがそいつは人じゃないんだ。







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