「赤い液体を見たり、破裂音がすると自分が自分でなくなる?」
僕はこの街で唯一の精神科医をしている。先月まで喫茶店を開いていたが飽きてしまって今はこの通り。
「はい。急に目の前が真っ暗になってあいつが、あいつが来るんです」
「あいつ?」
すると患者である軍人くんに両肩を掴まれランピー先生、助けてくださいと必死に訴えていた。彼の顔は青白く目は少し充血している、夜も眠れないと言っていた。ひよりくん。僕は助手である彼女を呼びつけ精神安定剤と睡眠薬を処方するよういった。笑顔ではいと答えた彼女は書類を持ち出し診察室を出て行った。
「睡眠薬ですか」
「うん、これで様子を見て発作が頻繁に起きるようだったらまた来て」
「はい」
彼は立ち上がり一度頭を下げて診察室を出ていった。それを笑顔で見送り机の引き出しから飴玉を取り出しひとつ口に入れる。
「もう一人の人格ね」
カルテを眺めてすぐロビーの方で大きな音、ガラスが割れたような音がした、ふと軍人くんの顔を思い出し僕は飛び出した。
「ごめんなさい先生」
先生の大切なコップを割ってしまいました、と。彼女は床に飛び散ったグラスを拾い上げる。手伝いますよと軍人くん。よかった彼の発作は起きていないらしい。ホッとしたのもつかの間、ひよりくんが痛いと呟いた。破片で指を切ってしまったのか、血が手を伝い一滴二滴と床に滴り落ちる。
「う、」
軍人くんは踞る。しまった彼の発作の原因は大きな音だけじゃない、血を見ても引き起こるんだ。考えがそれに至る頃には既に彼女は首筋から血を噴き出し事切れていた。何が起こったのかというと、僕も一瞬のことで理解しきれていないのだがおそらく目の前にいる軍人くんが握っているこのガラスの破片を彼女に突きつけたのだろう。酷いことをするなあ。僕は頬をかいた。
「まだ午後の患者さんが二人もいるのに」
「言うことはそれだけか」
明らかにさっきの軍人くんとは様子が違う。なるほどこれが彼の言っていた発作か。にやけた顔で八重歯をちらつかせている。目の下には隈を浮かべその奥には黄色の怪しく光る瞳が僕を捉えていた。じりじりと少しずつ間を詰めてくる軍人くんの手には未だべっとりと血の付いた尖ったガラスが。まずいことに僕は痛いのが大の苦手であった。「落ち着いて、僕も全力を尽くすだから一緒に治していこう」そう諌めると彼は鼻で笑った。
「治すだと?こいつが外面のいい人を演じて俺がこいつを守る。そうやって俺たちは長い間付き合ってきた、今更俺に消えろといっても無理な話だ」
「でもこのまま人を殺し続けるなんて君も辛いだろう」
「辛いなんて感情はない。俺はただ目の前にあるもの全てを消し去るだけだ」
彼の揺らぐことのない瞳に僕は思った。今回は諦めるしか無さそうだ。両手を挙げ降参の意を示す。彼の身体は動いた、僕は歯をくいしばる。しかし彼の手からはガラスが滑り落ちただけであった。
「先生、」
いつもの軍人くんに戻っていた。
「僕は、どうしたら、いいんですか」
そのまま床に崩れ落ち彼は顔を両手で覆い震えていた。
「寝ても醒めてもあいつが頭から離れない。戦争が終わればあれは消えるはずだった、けれど消えるどころか一日に何回も出てきては周りを血の海に染めている、僕はもう、あれをどうすればいいのかわからないのです」
僕はそっと微笑んで彼の肩に手を置く。安心してと声をかけると彼は顔を上げた。そして差し出す。彼が先程手放したガラスの破片を。
「簡単なことじゃないか」
「先生、」
「殺してしまうことが怖いのならはじめからこうしていればよかったんだ」




沈んじゃえば何も感じなくていいわけだ