ホテルと雨と一本の傘
「…どうぞ」

それはとても小さな声だった。

宍戸龍樹はその声を雨が降りしきる中で聞き、ふと隣を見た。後ろに控えている者も警戒の色を濃くして、宍戸に話しかけてきた相手を見る。

190近くある宍戸の隣には、頭一つ低い男が、何の飾りもないビニール傘を差し出していた。顔は下を向いていて良く見えない。落ち着いた色のスーツの中がピンクのシャツだったこともあり、少しチャラい印象も受ける。

宍戸はホテルの入り口で舎弟が回してくる車を待っていただけなのだが、隣の男は雨で足止めを喰らっているとでも思ったのか、傘を差しだしたのだろう。

「……」

「…よければ、使ってください」

無言のまま見ていた宍戸に男はそう言って近くの手摺に傘をかけ、男は身一つで雨の中出て行った。それも走るでもなく、淡々と歩いている。

雨を楽しむかのようではないし、急ぐことも避けることもしないその姿に宍戸は強く興味を惹かれた。それに、自分になんの恐怖や警戒もなく話しかけてくるの奴も珍しい。否、初めてである。何しろ宍戸は極道の中に生きる人種だったからだ。

190近い身長もだが、彼の容姿も他とはかけ離れている。身長に見合った引き締まった体躯と、彫の深い端整な顔に鋭すぎる目は野性的な美貌だ。そして、全身から発せられる一般人とは到底思えない隙のない雰囲気は、遠目からでもヒヤリとするほど恐ろしいものがある。

関東では間違いなく頂点に立っていると言っても過言ではない極道、緑川組。その緑川組の直系である鵬翔会(ほうしょうかい)の会長が宍戸だ。鵬翔会は極道の中でも新参と言われるほどだったが、一から経済ヤクザとして立て、他よりも現代の流れを読み、暴対法等でやりずらい中でも集金力は衰えることが無い、逆に多く、様々な方面から資金を作り上げていた。

宍戸の商才もあっての事か、表向きのフロント会社を日本ならず海外にもその手を広げているため、上からのおぼえも良く、三十代前半という若さでめきめきとその頭角を現していた。

その宍戸のダークスーツに身をまとった姿に恐れもなく傘を差しだす人間が居ようとは、驚きである。

本人含め、後ろに控えていた護衛達も驚いた面持ちで雨の中に消えた男の見ていた。

傘一本が何の意味を成すのか、顔を見ずに行ってしまった男の心理を掴むことができないまま、宍戸もまた近くに着いた黒塗りの高級車にその身を収める。

手摺にかけてあった傘を何気なしに持ってきてしまったが、オーダーメイドのブランドスーツ姿にビニール傘は似合うはずもなく、手持無沙汰に舎弟の一人に渡した。

自分に他意無く近寄ってきたのか、それともなんら仕組まれたものなのか、傘の行方は分からずに黒塗りの高級車は乗っている者の素性と同じく裏の闇の世界へと向かう。


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