10
僕の考えは当たっていたようで、彼は苦笑しつつ。
『我慢できなくてな、先に連れてきたんだ』
と言った。何が我慢できないのか知らないが、僕はもう人の国から遥か遠くの国にいる。
「なら、僕はもう精霊王のモノになったって事?条約は結ばれたの?」
『条約は結ばない、このままお前を連れて帰る。それと、お前が俺のモノになるというのなら、精霊王のモノになったと言う事になるな』
「せ、精霊、王…?」
『ノアガだ』
ノアガ、それが彼の名前のようだった。精霊王である、彼の。
『……帰りたいか?』
暫く黙っていた僕にノアガが聞いた。
僕は考えた。人でいたいと思うと同時に戻りたいとは思えなかったからだ。
何故思えなかったのかなんて、簡単だ。僕の世界はあの病院だと言っても過言ではないからだ。狂っている僕はあの病院以外の思い出は8歳までしかない。そんなところに戻ってどうするのだろうか、何年もお父さんとお母さんが迎えに来てくれるのを待っていた。でも来なかった。いや、人の国も僕を捨てたのだ。僕と引き換えに精霊の国と交流をもてたのだから。
「僕も、連れてって…どんなところでもいい、こんな立派な所じゃなくても、地下でも入り江でもどこでもいいから…もし、よかったら…」
この世界が僕を生んだ理由は解らないが、この世界が僕を生まなければよかったと思っていることは、よく理解できた。
僕が生まれた世界が僕を捨てたのならば、僕の行先は一つだった。
僕が生まれなかった、知らない世界。
「僕を…連れてって…お願い……」
お願いなんて生まれてこの方したことが無い。お願いして一緒に遊べるなら、お願いして僕を忘れないなら、部屋がもらえるなら、病院から出してくれるなら、僕が生れてよかったと思われるなら、僕はいくらでもお願いしただろう。なんでもした。それこそ、もしかしたら死んだってよかっただろう。だけど僕の願いを聞いてくれる人はおろか、そんなお願いをする時間やチャンスも一欠けらたりとも、世界はくれなかった。
僕は”たぶん”泣きながらノアガを見た。
泣いているのに、ノアガはまっすぐに僕を見たまま。
『泣いてもいいんだ…』
と言った。
僕は泣いていたと思ったのだが、泣いていなかったようだ。
そう言えば僕の表情は生れた時から無かったように思う。たぶん、笑顔だと思い、たぶん泣いていると思い、たぶん悲しいと思う、これだという表情が作れないから、僕はいつも、他人の表情を心の中で真似るだけなのだ。
「………」
『泣いていいんだ』
「………」
僕は泣いてもいいと言われた。言われたが、泣くとは確か目から水分が出ることだ。
僕には到底できないように思える。僕の右目は爛れているし、泣いても汚い濁った水分しか出ないような感じがする。
「……っ…」
そんな感じがするのに、僕の喉がグッと引き攣った。
「…ぅ…っ…」
『………』
ノアガは黙って僕の体を抱きしめ、頭を撫でる、優しい、優しい手つきだ。
僕が生まれた時、僕の世話を拒否したお母さんはベビーシッターを雇い、面倒をみさせた。ベビーシッターの彼女は心底嫌そうに僕の世話をし、オムツや食事以外は、触れようとしない、だから一人歩きするのにも、普通の子より時間がかかったようだ。
そんな事を思い出すと、僕は初めて誰かに抱きしめられて、頭を撫でられたのだ。そのことが拍車をかけて僕の心を締め付け、喉をつっかえさせ、目を熱くさせる。
「う、あぁっ…っ…ぁぁ…ひっく…ひっ…」
僕は泣いた。本当に泣いた。今まで泣かなかったすべてを詰め込んだ涙は、次から次へと流れ、止まることなどないのではと思えてくる。
そして僕は言う。誰かに聞いてもらいたかった僕の願いを。彼は、ノアガは僕が願いを言う時間をくれたのだ。
「僕はっ、…うっ…生きてても、いい、の…?」
『いい』
「ぼく、僕は…生きたい…っ!」
生きている。こうして呼吸をして、泣いている。
いるのだが…、僕は誰かに愛され、必要とされ、共に寄り添って生きる、本当の意味での命を願った。生きたい、と。
『あぁ、お前は生きている。俺と一緒に生きよう』
その言葉に僕は一層泣いた。
爛れた鱗を持つ僕の右目も、さっきの想像とははるかに違う、どこまでも透明で透き通った涙が流れていた。
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