ディエゴが亭主の訃報を受け取ったのは最後に顔を合わせてからひと月も経っていない時であった。そうして結論以外の部分の予想外なものに関し彼は暫し呆然としたものだ、人目には突然友人が不慮の事故により亡くなったことに衝撃を受けているものに見えただろう。そうだ、亭主は不慮の事故で亡くなったらしい。
 自室に一人、誰の目を気にする必要も無くなってからディエゴは改めて思い返した。なんでも、亭主を乗せた馬車は悪天候或いは悪路の為に谷へと転落したらしい。そういえば、雨も風も強いそんな天候の日があったなと漠然と思い出す。何故そのような日に馬車を出していたか知らないが、そのような理由はディエゴにとってどうでも良かった。彼にとって大事なことは亭主が死んだという事実であり、それよりも大事なことは恋い焦がれる相手が人の妻から未亡人になったことであった。あの亭主の死因など些細な違いでしかないのだ。さて、葬式の最中愉快さに笑みを浮かべずにいられるだろうか。気がかりはこのような事。
 ディエゴの手の中にはあの日の彼女の手のやわさが思い出されていた。

 ひとつの結論として述べるなら、ディエゴは彼女を手に入れたという事実が出来上がった。夫を亡くし弱っているところに付け込んだというわけだが、彼女へと向ける甲斐甲斐しさは偏に偽りだとも言えない。一心に口説き落としたそれはディエゴ・ブランドーという男その儘にといったところだ。葬式から一ヶ月ほどしか経たないうちに、君を好きだったんだとそうしてオレと結婚してくれないかと告げたその辛抱の無さは演じる余裕がない若い男のそれであった。ディエゴの好んだ唇の笑みの応じは何度思い返しても彼の心を喜ばせる。
「初夜には幾日足りないが……なあ、いいだろう?」
 それで、互いに再婚となる式を数日後に控えた夜だ。寧ろ今夜まで口付ける以外に手を出していないのが何かの間違いかのようだ。やわいそれに己のものを触れさせ、吐息を奪い、舌先を追い立てたそれらがその先を望む気持ちの昂ぶりを引き連れてこなかったわけでは勿論ないが、それでも事実としてディエゴが彼女に手を出したことはなかった。
 昨夜までは健全な意味合いで共に寝ていただけのベッドに彼女の背中を僅かに押しつけながら言った言葉と、その後に喰らうかのように口付けたそれらを思い出しながら、視線は意味も無く自身の髪先から滴り落ちる水滴をディエゴは見ていた。言葉の直ぐ後に事を始めなかったのは肉食動物が獲物をいたぶり遊ぶそれに似ている。或いは根元にある余裕の無さを年上の恋人に知らせたくない為に気休めにシャワーなどで本能を落ち着かせている。それもそうしないうちに意味などなくなることだろうが。
 事は順調に進んでいるとディエゴは思った、いいや思っていた。戻った寝室で一人舌打ちを響かせて。拭ったが未だ乾ききっているわけではない前髪を苛立ちと共に掻き上げ、何をしくじったかと思考する。しかし考えても答えが出てはこない、寧ろ答えを探すより彼女の姿を探す方が先かと、彼の足音苛立ちの音は廊下に響き始めるのであった。
 ディエゴが彼女を探し出すのにそう時間は要しなかった、その点は彼にとって好いことであった。覗き込んだキッチンで紅茶を淹れて飲んでいた彼女に不可解な表情を向けずにはいられなかったが。
「御婦人、何か無礼を働いてしまったかな」
 本来なら別の場所で失礼を働き始めていることではあったが。紅茶の水面へと向けられている眼差しもいじらしさであると、何にひとつも予定外のことなど無いといった具合にディエゴは余裕めいた。しかしそれも先の言葉と共に彼女へと少しばかり歩み寄った短い間の余裕だ、彼の鼻先をあの香りが擽るように撫ぜるまでの。香るアールグレイ。故に、ディエゴはまるで飛びかかるように残りの距離を詰めそれだけでなくティーカップは彼女の手を離れ床と暴力的な口付けをしたことだ。破壊の音は響いた、けれどディエゴの意識はそのようなものに向かずまた眼差しも偏に彼女ばかりに向いている。
「飲んだのか?」
「……痛いわ、ディエゴ」
 確かに、彼女の手は乱暴に掴んだ自身の手の中で痛みに身じろいでいるだろう。
「ああそれは悪いな、しかしオレは君のこの唇はカップに口付けて紅茶を飲み下したのかって聞いてるんだ」
「もし……このまま裏口から出て行って何にひとつも痕跡を残さなければ、見つかるのは被害者だけかしら。アールグレイは、私には苦いわ」
 彼女の前での舌打ちは今夜が初めてであった。ディエゴは彼女が確かにその紅茶を飲んだことを知ったし、そもそも彼女がアールグレイに纏わる幾つかを知ってしまったことを悟った。動揺しなければ良かったのか、彼女の仕掛けたそれに何食わぬ顔をしていれば。不毛な思考だ、現にその瞬間余裕なんてひとっつも無くなっていたのだから。
「花嫁は消えると言いたいのか。婚約者に逃げられたオレが被害者かそれとも事に気付いた君が被害者か。どちらにせよ誰も知らないさ。つまりは君は見つからない。互いに被害者でも逃亡者でもないって意味だぜ。君の喉は解毒剤を飲んでくれるのか」
「必要ないわ、だってこれは貴方があの人に淹れていた茶葉ではないもの」
「何だと?」
「違うのよ、ディエゴ」
 それはつまり僅か前に陥った不毛な思考は真実、不毛であったということだ。彼女はディエゴの今夜の動揺でアールグレイに纏わる幾つかを知ったわけではないということ。途端、ディエゴは目と鼻の先の彼女が分からなくなる。微かに震える睫毛はどのような感情によってそうとするのか。
「なぁ、君は明日の朝何処で目覚めるつもりなんだ?」
 いつから知っていたんだ、亭主を毒殺しようとしていたのを。結果として不慮の事故で死んだが、夫を殺そうとしていた男をいつから欺いていたのか。
「オレは君を愛してるっていうのに、君は裏口から出て行くって言うのか? 君は案外タチが悪いのか? 意地が悪いのか、オレにとって」
 それでも正直、ディエゴの唇は今までと変わらない恋情を以て彼女のそれに触れたがった。或いは今まで以上に。その強かさもまた此方を誘惑して堪らないといった感じだ。
 お互いの一致した視線が同じ向きにちらりと逸れたのは、廊下から聞こえてくる足音の為だ。カップが割れた音は思っていた以上に響いていたらしい。恐る恐るといった様子でキッチンを覗いてくるメイドをディエゴも彼女も見ていた、距離は近いままだが拘束するように彼女の手を掴んでいた彼の手はスマートさを以て彼女の腰辺りにその時はあった。
「あっ、奥様に旦那様……」
「カップを割ってしまったの、驚かせてしまったかしら」
「いいえ奥様、それならよいのです。コソ泥か何かだと思って……ああ、奥様、勿論わたくしが片付けておきますのでどうか割れたカップに触れないでくださいませっ……!」
「ごめんなさいね、夜も更けているのに仕事をさせてしまって」
 ディエゴの手からするりと抜けて床のカップを片付けようとした仕草が、彼にとっては手から逃れようと或いはそれ以上に彼自身から逃れようとしたものに思えて仕方ない。
「では戻りましょうか……ディエゴ、エスコートしてくださる?」
 だから、彼女が控えめに差し出した手の平やそうして重ね合わせた温度というのが酷く不可解で。
「あぁ、……喜んで――」
 ミセスなのかミスなのか。亡夫と離婚しているのか、彼女の心は。ディエゴには判断が付かなかった。
 互いの間に横たわった沈黙の所為で部屋までの距離はとても果てしないものに感じたがそれでも当たり前に二人は部屋へと辿り着く。より詳しく言えば寝室へ。ベッドに座り込んだディエゴは、まさかこのような心持ちで今夜ベッドに腰を下ろすことになるとは昨夜のオレは思ってもいなかったことだろうと顔を伏せた。
「……それで、」
「それで今夜は眠るのかしら、それとも?」
「それとも、だと……?」
 同じようにベッドに腰掛けた彼女へと怪訝な表情を向けずにはいられない。
「…………淫らな女なのか?」
「ディエゴったら失礼な人」
「オレに君を抱ける権利は残っているっていうのか。あいつを愛してなかったか愛していた、か」
「特別な存在よ、今も。嫌そうな顔ね、ディエゴ。あの人はずっと私の良き友よ。家族のような友人、秘密の共有者」
 結婚していたから、ようなではなく家族で友人だったわね。くすくすとした笑みを付けたそれは彼女の軽口であった。
「ディエゴ、貴方のことも友人だと思ってるわ。とても大切な」
「愛してはなかったのか」
「分からないわ」
「つまり君は友人と寝るような女なのか、それで淫らじゃあないだって? オレはそんな君だって好んでしまうんだろうがな、勿論オレ以外に縋るのを良しとした話じゃあないぜ」
「恋だ愛だなんて分からないけれど、特別な友人なのよ。それっていけないことかしら。一番の友人にキスしてはいけないの? 友愛と恋愛の線引きは何処から? ねぇ、ディエゴ」
「ずいぶんと無邪気だな、知らなかった。ああ、今夜は知らなかったことばかりだ。オレが知らなく、君は知っていた。つまり君はあいつを殺そうとしていたオレをどう思っているか聞こうというわけだ」
「正直に言うと、それもまた分からないわ。友人を奪ったのは結局、毒じゃあなかったわけだから。……ただ、彼には悪いことをしたと思っているの」
「オレ以上の悪者に君は成れないがな」
「いいえだって、私が悪いことをしたわ。だってあの人、貴方のことが好きだったんだもの」
「何だって」
「同性愛者だったのよ彼、貴方のことがとても好きだった。一番の友人は私だけれどね」
「つまりは、ああ、いや、多くを聞くつもりはない。寧ろお断りだ。ただ聞くなら、政略結婚ってやつか? 世の中の半数がそれだろうけどな」
「いいえ、お互いの意思よ。都合が好かったもの、互いが理解者で。私としても行き遅れで煙たがれていたもの、ずいぶん。……何か質問はあるかしら」
「君はこのディエゴ・ブランドー騎手のファンではない?」
「そんなまさか。レース場を駆けるシルバー・バレッドさんの流れる姿も、先を見据えるディエゴ・ブランドー騎手の眼差しもとても素敵だわ」
「そうかい、それは良かったよ」
「貴方は、貴方の知らなかったナマエについて思うことはないの?」
「オレも、正直に言うと分からないな。今やオレの口に残るのは君の甘酸っぱさだけだ。今夜口付けた、な。これまでの君がこっそりと姿を消したようなもんだ、もしかしたら。それでも君が好きだ、君がもし淫らな女だとしてもな」
「財産目当てじゃなかったのね」
「君が持っているものは少な過ぎるだろう。勿論、君自身を除いたらな」
「歳も離れてるわ」
「亡くなった妻の年齢を知っているか、八十三だ」
「ええそうね、亡くなった」
 含み。成る程、秘密の共有も悪い気はしない。暫し互いの間に言葉を無くしたが今度ばかりはその沈黙は肩に背中に重苦しいものではなかった。
 そうした沈黙の後、次にディエゴが唇を用いたのは言葉を交わす為ではなく貞淑そうな笑みを浮かべる彼女の唇を奪う為であり、互いの鼓膜を震わせたものは性急さに軋んだベッドの音だ。或いは相手の口内へ零した吐息、それも当初の予定を改めて思い起こすような。どちらとも判別の付かない微かな水音、追い立てた舌先を翻弄するその合間の音も忙しくやってくる。絡めては解き、解いては絡める舌同士に暫し離れては直ぐに覆い被さり直るような唇は確か、喰らいあっている。彼女が自身の舌先を甘噛んだのには些か面喰らったものだが、恋人のその悪戯はディエゴにとって満更でもない悩ましさであった。また色のある表情での囁きは、紡いだものがものだけにより彼の心を高揚させる。
「ああそういえばディエゴ、淫らかどうかは分からないわ。作法を知らないわ。処女は嫌かって意味だけれど」
「いいや思わぬ幸いだ、リングにキスしてお辞儀までしてやりたくなる」
 例えば新郎が新婦をそうするように彼女を勢いに抱き上げ、支えたままに彼女のその手を絡め取り薬指に唇を触れさせた。そうしてその優しさなどもう忘れたとばかりに彼女を手荒くベッドへと半ば放り投げる、小さな悲鳴は寧ろ幼い娘が喜ぶような。
「君が明日の朝オレの知らぬところで目覚めるなんて杞憂もなくなったんだ、次の幸福なひと時を見つけることにしよう」

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