時間は都合良く進んでいるようだ、或いは亭主の余命という名の懐中時計は。屋敷に招いた夫妻とのアフタヌーンティーの合間に不粋に響く咳の音、ディエゴはカップで遮られたその口元の向こうで笑んでいる。堪えようとしているがハンカチーフで抑え込むこともできずにただただ喉を臓器を震わせるような咳を繰り返す、その様子に愉快な心持ちを紅茶と共に流し込み表沙汰にせぬように。咳があまりに治まるところを知らないので暫し席を外すと言うそれをさも心配だと眉を寄せて見送った。
「なあ彼、ずいぶんと体調が悪そうだ。医者にはかかったのかい?」
「ええ。少し風邪を拗らせたのだろうとお医者様から言われたと言っていて……本当に風邪であればいいのですけれど……、それにただの風邪だとしても安静にしていて欲しいのに一日中ベッドに横になっているのはどうにも駄目みたいで」
 役に立たない医者のようだ、風邪だって? そんなわけがないじゃあないか! おかしくて堪らない心中とは裏腹に眉根を寄せて重々しい吐息をディエゴは唇から零す。
「嫌がってもベッドに縛り付けておくべきじゃあないか。……ああいう咳は、どうにも思い出す」
 夫人はディエゴのその言葉と伏せた眼差しに彼が思い出したものを察し、彼女もまたその睫毛で目元に影を作るように眼差しを伏せた。勿論、言葉も態度も感情もディエゴのそれらは演じただけのもの。ディエゴは夫人の姿を窺って胸中では下唇を舌先でちろりと舐めているようなものだ。自身の言葉で伏せられたその眼差しを別の言葉ひとつでただ此方へと一心に向けるものにしてしまいたい、その他例えば手首を掴みその体を引き寄せ腰を抱いてみたら。想像するだけでその愉快さに心臓が高鳴るようだ。ただ互いの合間にあるテーブルが邪魔者ではあるが。そればかりが今、彼女の視線を受けているのも或いは気に入らない。
「……いや、呼びつけたこっちも悪いんだ。君に当たってすまない」
 仄かに震える睫毛、その瞼に口付けたいなどとは言うまい。弱々しい唇の笑みなどを見ると、まるで獲物を前にした肉食動物の心持ちだ。噛みつくのも喰らうのも、この先の予定では有る意味はその通りだが。
「そういえば、彼は大陸横断レースをできうる限りに端から端まで見ているつもりらしいじゃないか。彼ならやりかねないところだ」
「ええ、四六時中観戦していたいらしくて。もういっそ、貴方もレースに参加したらいいんじゃないかしらと言ったぐらい。知っての通り、あの人は乗馬がてんで駄目だけれど。きっと私の方が速く走らせることができるわ」
「へえ、君が馬に乗っているところを見たことがないな思えば。我が愛馬に乗せてやりたいな、君を遠乗りに誘うには十年ほど早く生まれてくるべきだったと思うが」
 軽口にふふっと笑み声を零す彼女に、まあ手遅れだという意味ではないがなと彼は言葉は伏せて眼を僅かに細めるようにして笑い返した。
「――ナマエ」
 ふと、それは思えば唇の油断ではあったが、今の今まで紡ぐことのなかった彼女の名をディエゴは徐に呟いていた。彼自身、そうするつもりなどなかった。意図的ではなかった、それこそが不味かった。友人の妻の名を呼んだだけ、にしては音に感情を孕み過ぎていた。自身が発したそれを客観的に思えば、ゴシップ記者どもが好むそれになりそうなものだ。まるで弱々しく縋りつくような響きでありその反面恋情に浮かれた若者の荒々しさもあったような。ディエゴは我が事ながらしくじりに苛ついた、そういった感情を乗せて彼女の名を紡ぐには未だ時期が早いのだ。未だ彼女は他人の妻だ。
「なぁに、ディエゴさん」
 例えば夫人の声音が何に一つも抱いていなければ、それは彼が紡いだ音、それに孕ませた感情に気付いていない或いは気付いていて意図してそのようにしたものだ。侮蔑じみた。例えば夫人の声音が抱いたものが縋った手を払い除けるような響きであったら。夫人の声を耳にそうして表情を目にしたディエゴは暫し呆然としたようだった。彼女がディエゴへと差し出した声音は先のどれでもないものであったのだから。らしくないと自身でも思ったがそれでも、彼女の発したその響きに聖母マリアなんてものを思い浮かべたくらいだ。
 唇以上に脳が油断しては堪らない、大きなしくじりがあればそれまでになってしまう。もし勘違いであれば、事を進めてからいや間違えたんだ! と言ってもどうしようもない。
「……いいや、特に何もないんだ」
 この時ばかりは夫人の笑みは反ってディエゴを臆病にした、彼は後にも先にもそれを認めないだろうが。
 互いの合間にほんの何もなかったかのように他愛ない会話は続いていく、亭主は戻ってこない。
「大陸横断レースはシルバー・バレッドさんと?」
「ああそうだが、君は馬に敬称を付けるんだな」
「あの人が敬愛するように話すものだから、影響を受けてしまったんだわ」
「何と言うか、彼のそれは筋金入りだ」
「嫌がってやらないでくださいね」
 まるで息子とその友人に言うようだなとディエゴは思った。或いは悪戯にも思える笑み、それを口辺に漂わせた夫人はディエゴから視線を外しカップを唇へと運ぼうとする。が、空であったようだ。それで、自然な流れで彼女はティーポットへと手を伸ばす。それを眼差しにしていたディエゴにはその数秒、時間の流れが極めて遅くなったように思えた。徐々に見開かれる自身の目と、彼女の指先が辿り着くそれ。
 がちゃんっ、と鳴った。上半身をテーブル上へと乗り出したディエゴが伸ばした手、その咄嗟の手が僅かにティーポットへと当たってから夫人の手を押さえたからだ。白く細い夫人の指先を纏めて自身の手の中に収めた彼は、瞬間の緊張の為に触れたそれらへの感情は数秒をおいてからやって来させたようなものだった。
「こっちは、君のじゃあないぜ」
 アールグレイは苦手だろう。平然と言えていただろうか、とディエゴは思った。そうして今日はしくじりばかりだ! とも。
 ただ、此方が心配になるほどにか細く柔く指の腹に心地好い彼女の手に、男であり騎手でもある自身の手との差に、ほぅと息吐くような淡い感動を覚えたことはしくじりであるとも思えなかった。
 この直ぐ後に亭主が戻ってきた(勿論ディエゴと夫人の手が離れてからの話だ)のでその日はそればかりで終えた、戻ってきた亭主と有意義な話をした覚えがディエゴにはない事もあって。

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