午睡のまどろみはティーカップの中で揺れる紅茶の水面にぽろぽろと揺らいでいる。陽の輝かしさを傾けたカップ、喉奥に流し込んだ紅茶で束の間それを遮った青年はつぃとその双眸を細めた。青年、ディエゴは傍らの老婆がソーサーへとカップを預けた際のかちんっという仄かな陶磁器の音を聴いた。妻であるその女性が紅茶を飲んで僅かばかりに零した吐息の音を。そのような音を聴いていたいかと問われれば、態々聞いてくるような輩はいないが勿論まさかといいながら首を振る。その人物が自身の妻だとか言う立場に在ってもだ。愛を以て婚姻を結んだ気など彼の中にはさらさら無かった。だからつまり、その音を聴いていたのは確認に他ならない。老婆が紅茶をその喉奥に流し込んだという。
 茶会、とは言っても招いた客人は二人だけで自身等を含めば四人という少人数でしかないものだがその今回の茶会がディエゴにとってどのような心持ちであるかといえば、言葉を二つ用いるとしたなら好ましいと好ましくないその二つで充分だ。それぞれの度合いは違うものだが、前者は客人の夫妻にあり後者はひとつを挙げるとすれば今も鼻先を擽る香りのそれにある。上等な茶葉ではあるが、少しばかり飽き飽きしていた。近頃は特に珈琲、それもブルーマウンテンを好んでいた為に紅茶よりそちらをと思うばかりだ。こてこてのアフタヌーンティーの席でそのようなことを口にする浅はかさなどディエゴには微塵も無かったことだが。
 そもそも今回の茶会の名目というのが数日前に行われたレースでディエゴが優勝を果たしたそれであるということを彼自身にふと思い出すように浮かばせたのは、早く賛辞の言葉を贈りたいという感情を声音に浮かばせたままに老婆に招待頂き感謝致しますとお決まりの言葉を紡いでいる亭主だ。あからさまなチラチラと向けられる視線もまたディエゴにそうと知らせる。勿論、自身のレースの戦績をディエゴが忘れていたわけではないのだが、彼にとってそのレースは優勝して当然でそれ以外の結果など残しようがないというほどのものだったので賛辞の言葉など彼の心に届きようがない。くどければむしろ嫌味とさえ捉えていただろう。
「嗚呼、ディエゴくん、先日のレースも優勝おめでとう! やはりきみは素晴らしいよ!」
「ありがとう、そう言ってもらえて光栄な限りだ」
 どうとも思わない賛辞の言葉であっても表情と声音を用意し返すそれを忘れない。もし手を差し出していれば両手でその手を包み込まんばかりの前のめりな勢いも顔をしかめたのは胸中だけだ。亭主が騎手ディエゴ・ブランドーのファンだということは幾度かの茶会の中で知っている、ディエゴ自身が参加したそれはうち二回だったが。また老婆との四ヶ月の結婚生活の中で既に四度目となる茶会の回数から老婆と夫妻との縁の深さを知っているいやそもそも、老婆と夫妻が親しげに言葉を交わすことからあからさまにあしらってはそちらの方が後の面倒だ。
 しかしながら、どうせファンとしての好意を向けられるなら女性である方が好ましいとディエゴはちらりと忍ばせる視線を向けた。今の御時世資金や権限の多くを有しているのは勿論男であるからパトロンとしては便利であるが(とは言っても財産をたんまり蓄えている未亡人であれば男より便利な場合もある、何処の誰とは言わないが)二十歳の健全な肉体を持つ青年としてはそういう意味合いとして好ましいのは今や若干上半身を此方へと乗り出している亭主より当たり前に夫人の方であった。一回りほど年齢は離れていたがむしろそれが反って好い、鼓膜を引っ掻くような喧しさはなく僅かに憂いを感じさせるような淑やかさに色気がある。勿論歳を重ね続けた方が好いという意味でもなければ、憂鬱な面持ちばかりの女が好ましいわけではなかった。挙げたそれらと異なっていた部分があろうと、どうせそれらもまた好ましいと挙げていたようなものだ。この夫人を好ましいと思っていた、それだけだ。忍んだ眼差しは問題なく向けたままの顔先の方へと。ディエゴが分かりやすく眼差しを向けたわけでもなければそもそも夫人は紅茶を飲んでいた最中なのだからその視線が一致することはなかった、カップに口を付けたままに目線を人と合わせるのは不作法であるのだから。
「それで、きみはスティール・ボール・ランに参加表明をしたわけじゃないか、その間トラックでのきみの勇姿を見られないし大陸横断レースともなればそっちでも四六時中というか殆どが見られないわけじゃないか。かつてないレースでの姿が楽しみな反面残念なところもあるよ」
「イギリス競馬の表彰台の一等の位置を束の間譲ってやろうと思ってね。まあ大陸横断レースでのオレの走りばかりになるだろうがね、記者がこぞって書くものは」
 違いない、そう言った亭主から漂ってくるアールグレイの香りが鼻に付いた。この男と老婆ばかりがそれを飲む、夫人は独特な香りのそれが苦手であるから飲まない。ディエゴは場合によりけりだが、この席で飲むつもりはなかった。
 空になった亭主のカップへともう一杯を注いでやったディエゴの耳にこほこほという老婆の咳き込む声が聞こえた。大きく咳き込んだというわけではないが彼だけではなくその場にいた者全てに聞こえるほどではある咳だ。
「大丈夫かい」
「大丈夫よ、ディエゴ」
「そうは言っても、その咳は先日レース観戦していた時もしていたんじゃあないか」
「マダム……、お体に障っているならどうかお休みに」
「そうさマダム、もし風邪のひき始めだとしたら侮っちゃあいけない」
 ディエゴは咳き込んだ妻の背中を心配気にさすり甲斐甲斐しい夫の姿を装う。不安げな表情を作りながらその実そういった感情は微塵も持ち合わせていない。マダムと唇を開けた夫妻へと表情を見せながら、ちらちらと横目で何度も妻の体調を確認するのを忘れず。
「君達もよく言ってやってくれ。応援の眼差しを感じるというものは良いものだが、彼女が心配で仕方ない。シルバー・バレッドにいつ観客席への柵を跳び越えさせるか分かったものじゃあないんだ」
 彼自身、愛馬より老婆が心配だなんてあるわけがない。なんとも白々しいものだと思ったがまるで息子夫妻のように老婆に可愛がられる二人にはこれでいい。これぐらいが丁度良い。茶会の続行を望む妻を事あるごとに心配しながら、時間を経たせればいい。さてこの老婆が冷たい体で全財産をオレにまるっと渡すことになるのはどれほど時間を経たせた後だと考えていたとしても、今現在の場面は遺産云々ではなくこてこてのアフタヌーンティーなのだから。

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