――を知る者も知らぬ者も無力感を味わうだろう。所詮それらを変える術を人は持っていないのだ。

 迷える"子羊"とは程遠い風体で身体を縮込ませてそのドアノブへと触れるか触れまいかで悩んでいるのはペッシだ。挙動不審という言葉が嵌るに過ぎるその様へと嫌らしく笑ませた目を向けているのは彼、メローネで、またその彼は片手に持った紙の束から音が騒々しく立つように態とらしく振ってみせた。跳ねるペッシの肩と心臓。漸く己の存在に気付いてもらえたメローネはペッシが慌てて手を遠ざけたドアノブへと詰め寄り、そしてそれを握り込んだ。後はそれをちょいと回して押し開けるだけだ。それなのにメローネはペッシの顔を下から覗き込むようにして観察する。息を詰めるペッシはメローネの言いたいことなど一つも分からぬといった具合で最小限の呼吸を努めていた。だからメローネは、態々開いた唇でゆっくりと言葉を紡いでやったのだ。
「ナマエに用があるんだが、お前も入るか?」
 ペッシの返答など聞かずにメローネはその扉を開けてしまったが。
 軽い挨拶の言葉を吐きながら部屋へと足を踏み入れたメローネに釣られるようにペッシもまたその空間へと足を踏み入れた。ベッドの縁へと腰掛けていたナマエの冷たい視線がメローネへと向けられている。ペッシはびくりと身体を震わせた。
「メローネ、また確認も無しに入ってきて……」
「悪い悪い、でもこれが必要だろ? 次の仕事分の。顔写真に正しく氏名生年月日その他諸々の情報付きの只の紙の束とは言い難いこれが、さ」
「確かにその紙が必要になるわ。でも次は無いからね」
 一触即発のその様子をびくびくと見守るペッシはそのやり取りが何時も同じで、幾度も繰り返されてきたものだとは知らない。メローネから視線を外したナマエは今気付いたとばかりにペッシへと視線を置いて僅かに上唇と下唇の間へと隙間を作った。
「思春期でいて初心な餓鬼みたいに扉の前に張り込んでたんだぜ、こいつ」
 メローネの吊り上がった唇とこいつと向けられてくる指にペッシの視線は床のラグへと向き、また顔は血流の良くなった為に赤味を増した。一つだけぽつりと在る椅子へと座り込んで足を組んだメローネは只の世間話、それもどうしようもなく変哲も無いありふれた世間話をナマエと始めてしまった。大方喋るのはメローネで、ナマエは彼の言葉に頷いたり小さな返答を返すのみだが。
 部屋へと数歩足を踏み入れた場所で下を向いたまま一向に動作を見せぬペッシへと視線を向けて数秒考えたナマエは、彼へと座るように促す言葉を吐いた。彼女の促すそこはソファで、大きさから見るに三人掛けのもの。ペッシは息を呑み、そして小さく吐き出したのは二酸化炭素と共に確認だ。
「……――を、聞いてもいいかい」
 主語を聞き取ることが出来なかったナマエは首を傾げてその項を伝えた。ペッシを見る視線はメローネのものも混じっていた。
「その、……ソルベとジェラートの、こと」
「ソルベと、ジェラートのこと。……二人のことについて、私に何を話すことを求めているの?」
「えっ、……その、……」
「ペッシはさあ、ソルベとジェラートがあんたに何をしたのか知りたいんじゃないか。なあそうだろ、ペッシ?」
 ペッシの代わりとばかりに言葉を吐いたメローネはソファの前のテーブルへと紙の束を放り出した。それを見て小さく溜息を吐いたナマエは視線をペッシへと戻してからもう一度、座ってはどうかと促した。ペッシは困惑したままに突っ立ったままであった。彼女はそれをジッと見て、そして視線を外した。彼女の向けた視線の先はカーテンで遮られたまま外の景色の見えぬ窓だ。
 時計の秒針が一周した。小さく呼吸をしていたナマエが言葉を発したのは秒針が天を真っ直ぐに指した時だった。
「……ソルベは私の家族を殺したわ。私には血の繋がった、姉や妹はいなかったけれど。確かに血縁関係にあった母と父はソルベの手で殺された」
 淡々とした声色で紡がれたその内容にペッシは只さえ辛いばかりの呼吸で息を呑む。呑まれた空気の歪な音に視線をペッシへとやったナマエは彼の様子に目を細める。不安気に揺れる彼の目に見返されるナマエ、その二人へと視線をやり足を組み替えながら続きを促したのは残りの彼、メローネ。
「ジェラートは?」
「ジェラートは、」
「あんたを閉じ込めた、だろ?」
「……促しておいて言葉を取るの」
「だがこれもまた事実」
「そうね、事実だわ」
 ペッシは己の鼓膜から脳味噌へと飛び込むその内容に顔色を悪くして尚二人の会話に耳を向けてしまう。事実だと繰り返し言うその唇へと視線を向けた彼は彼女の青白い肌で一際映える赤に身震いした。ナマエは、ペッシの挙動を視界に納めて、三度目の言葉を吐いた。
「ねえ、ソファにでも座ったら?」
 堰を切ったように首を左右へと勢い良く、それは音が鳴りそうに、ぶんぶんと振ったペッシ。彼は何か言おうと唇を開き、それでも言えぬとばかりに閉じた。そこからは早い。身を返したペッシは扉が壁に打つかる程に開け、そして出て行った。跳ね返った扉が中途半端に廊下を見せている。
 呆然としているナマエと、こうもなるだろうといった表情を浮かべるメローネ。扉を閉めに立ち上がったのは後者だ。丁寧過ぎるほどに音を立てず閉め、そして振り返った彼が問い掛けた。
「なあ、死についてどう思う?」
 ナマエは眉を寄せた。そして数秒の後に自身の答えを教える。
「救いか、……報い、ではない?」
「そ、……じゃあ、あんたは救って欲しかった?」
「……これもまた救いよ。……メローネ、あまり難しい質問は止して」
 ナマエに向けて笑ってみせたメローネは返した踵で椅子へと座り直し、また足を組む。その爪先を揺らしながら彼は話を続ける。
「俺とあんたは似てる。同じ、じゃないか?」
「同じじゃないわ」
「何所が」
「少なくとも、性別が違うじゃない」
「成る程確かに、娼婦と男娼じゃ同じじゃない。だがそういうことを言いたいんじゃないだがな」
 ふらりと立ち上がったナマエは窓際へとその身を寄せる。窓枠の中の景色を広げるように寄せたカーテンで、どんよりと曇った空が彼女の視界で見て取れた。分厚い雨雲だ、今朝は眩しい程の快晴であったというのに。
 メローネは窓硝子へと手の平を添えるナマエを視線で見守り、そして言葉を待った。彼女は振り返ることなく背中で彼へと言った。
「私は、……メローネみたいにショウカ出来てないもの。……能力に昇華することも、過去として消化することもないまま」
「……籠の鳥は保護されているのか、それとも――」
「メローネ」
「あー、ごめん。黙るよ」
 振り返ったナマエの少しばかり吊り上がっている目尻へと視線を向けてメローネは謝罪の言葉を吐いた。そして彼は彼女の背後に窺える曇天をちらりと見て、口角を吊り上げる。足を組み替えながら。
「外に出られないあんたに教えてやるよ。今日は午後からどしゃぶりらしい。あと、ソルベとジェラートのお帰りも、午後の予定だ」
 彼がジッと寄せる視線の先で彼女の眉がぴくりと動く。メローネは笑い声を上げながら椅子から腰を上げた。そしてつい先程まで同じ空間にいた男、ペッシのことを思い出しながらまたその肩を揺らす。ナマエは彼の笑い声に鼓膜を震えさせながら視線を時計へとやっていた。腹を抱えるほどに笑った後、メローネは笑い声ではなく言葉を吐く為に唇を開き、そして彼女に言ってやった。
「ペッシの恐ろしいとばかりの様子、滑稽じゃなかったか?」
「……私が化け物にでも見えたんじゃない」
「化け物! 何、例えば吸血鬼だとか? ソルベとジェラートはナマエ専用の血液パック?」
「まさかだわ。……メローネと話すの、疲れる」
 肩を僅かに落としてベッドへと歩みより、ナマエはそこへとまた腰掛けた。時を刻む時計の音を鼓膜へと招き入れ、彼女は目を瞑る。メローネは一つ鼻で笑ったのを彼女へ落とし、そして足を扉へと向けた。この部屋でナマエと喋っているところに例の二人が帰ってくるのは少々ばつが悪い。流血騒ぎにならずとも――いや、下手したらなるのか? 兎に角、そういう方面の面倒は避けておくかと判断したメローネはその部屋を後にする。自身の手で閉めた扉に生まれた人間一人だけの閉鎖された空間。
「……過去は変えられないが、現在は人を変えることが出来るのか否か」
 ぽつりと吐き出された呟きは心許無い電灯で照らされた廊下に冷たく響く。今度ばかりは鼻で笑うでなく、彼は溜息を吐いた。自身の体には甘い香りが僅かに移っている。きっと、感傷的になるのはそれのせいだと歩みを始めた彼は一度の瞬きの間に拭って口元へ常時の笑みを戻した。ぱちりと、電灯も瞬いた。

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