翌朝、俺は自身の鼻腔を掠める匂いに目を覚ました。壁掛け時計の差す時刻を視界に入れてギョッとする。真っ直ぐ上を指すそれに、俺は深く寝入っていたことを知った。そもそも、彼女がキッチンへと立っていたことに驚いた。俺は彼女が歩いて直ぐ側を通り過ぎた気配の一つにも気付けなかったらしい。どれだけ心を許しているか、その二つが示していた。
 身形を整えてから、俺は椅子に座ってナマエの後姿を見守った。彼女の身に着けているエプロンの蝶々結びなんかに頬杖を突きながら視線を送る。人差し指と親指でその帯の先を摘まんでシュッと引き抜いて解いてやりたい。だなんて、考えてるわけじゃあない。小指分くらいは考えてたけど。
 時間が止まってしまえば良いのに。俺とナマエ以外の世界中を巻き込んで、時間が止まってしまえば。それか、俺達二人を置いてけぼりにしてくれていいってのに、残念ながら俺のスタンド能力はそんなんじゃあない。本当に、残念だ。
「メローネ、今日の予定は?」
「無い」
「観光に来たのに?」
「俺はナマエを見るのに忙しいんだ。カルボナーラ?」
「うん。食べれる?」
「大好物さ! ナマエも含めて、ね」
 照れている後姿も良いが要望が通ると言うなら、是非振り返ってその真っ赤に染まった頬を見せてくれれば良い。追い討ちを掛けるようにドルチェは勿論ナマエだよな! とその背に言葉を投げ掛けたが、そうしたら俺の分のカルボナーラがえらい目にあってしまった。ブラックペッパーの舌にクる刺激より、もっと違う場所に違う刺激が欲しいんだが、それを言っちゃあ展開が目に見えてるんで止めとく。賢明な判断のお陰で、食後ナマエとデートをする権利を頂くことが出来た。俺の脳味噌はなかなかに良い仕事をしたようだ。

 休日らしいナマエに手を引かれて、二人で石畳を踏み歩いた。昨夜僅かに降ったらしい雨でしっとりと濡れた其処に、場所によっては小さな水溜りが出来ている。それを見ながら思い出した。昔、海を知らなかったナマエに海というのはでっかい水溜りのことで、さらに舐めるとしょっぱいんだという、なんともお粗末な説明をしたことを。勿論、一番初めの説明だったから態とおざなりに言ったんだ。それでも、彼女は俺の描いた海を見てはその目を輝かせていた。
「それで、この先には――」
「ナマエ、前を向いて歩かないと転ぶだろ」
「っ!……だいじょーぶ!」
「俺が支えたから、だろ?」  
 はにかんで頬を赤らめたナマエが笑う。きらきらと眩い彼女の瞳に俺の姿が映りこんでいて、俺は視線を彼女から逸らしてしまった。
 其処にいるのは暗殺者とその標的だっていうのに、良く知った街並みはそんなこと御構い無しで常時の喧騒を響かせて不変の時を流していく。行き交う人々の足取りはせかせかと速い。それなのに、ナマエと俺の時間は緩やかに、穏やかに流れているように感じた。いや、時間が経つのは早いが、それでもだ。
 ナマエは俺に滞在日数を尋ねなかった。俺もそれについては口にしなかった。溜まっているらしい有給休暇を消費して俺との時間を拵えたと笑う彼女に、じゃあ明日海に行こうと俺も笑い掛けた。自身の立場やとある期限なんて、無理矢理に頭の隅に追いやって。

 季節外れの海岸に人気は無く、潮のにおいを含んだそよ風が耳を撫でると少し寒い。それでも細かな砂の粒子へと踏み込みながら、ナマエと波打ち際へと歩んだ。進む毎に波の音や海の匂いが増し、存在感を膨らませてゆく。
 ナマエは睫毛で影を落としながら視線で海と砂浜の境界線を捉え、目を見開くようにして上げた視線で引いて寄せる波を、跳ねる飛沫を、遠くの地平線を、瞳いっぱいに映した。やはり海や太陽よりも、彼女の瞳はきらきらと眩く輝く。夢心地のままに薄く開いた彼女の唇から零れた言葉に、俺は彼女の表情を見たままに安堵の息を胸中で吐いた。何だこんなものか、と落胆されることを恐れていたからだ。それだから、綺麗だと呟いたナマエに酷く安心したし、彼女の表情を窺っていた視線を海に向けて、俺自身もその景色に目を奪われた。塩分を含んだ只単にでかい水溜りだなんて形容したくせに、ナマエの隣で見るとこんなにも美しいだなんて、なんて単純な脳だろうか。
 俺とナマエは、時間を忘れたように鳴り響く潮騒に耳を傾けながらずっと、海の蒼を網膜に焼き付けていた。

 頭の隅へ追いやって忘れようとしても、それは確かにやって来る。暫く不通にしていたままに期限が迫っていたから、着信が入っていたようだ。不在着信を告げるそれを視界に入れて、はぁと溜息を吐く。分かっている。出来ませんでした、で終われるものではないということは。俺が殺らなければ、他の誰かが殺るだけだ。それだけ、なのだ。
 呼び出し音の後に大丈夫、と呟いた自分の真意なんて、知らない。

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