ナマエが俺に此処へ滞在する理由を尋ねたものだから、俺は自身も良く知った街を何も知らない風にして観光と称した。其処の角を曲がった所にはチームメンバーで良く利用する美味い珈琲を飲めるバールがある事を知っているし、反対の通りへ少し行った先の分かり辛い小道の先に在る雑貨屋はなかなかに心躍る小物を揃えている。観光客が当たり前の様に足を運ぶ場所なんて、飽きるほどだ。それでも、彼女に手を引かれて回るそのどれもが新鮮で輝いて見えた。ありきたりな言葉だろうけど、さ。
 楽しい時間っていうのは何をどうしてこんなに早く過ぎ去るものか。薄暗くなってきた景色に、ナマエは自身の住まうアパートへと向かい始めているらしかった。夜を出歩くのが物騒なことを身に染みて知っている俺はその手を引き止めるだなんてするつもりもなく、引かれるがままに彼女の背を追うしかない。

 そうして観光に来たにしては荷物を全然持っていない俺を一片も疑わぬままに、彼女は自身の住居へと俺を招き入れた。それに加え、夜風に冷えたでしょ? だなんて言って先にシャワーを浴びる権利まで俺に与える始末。暗殺の対象だってのに、無用心過ぎる彼女にヒヤッとした。
 ナマエはバスタブに浸かるらしい。そうして俺にもどうするか聞いてきて、それに頷けば幾つかの小袋を差し出された。どうやらそれらは入浴剤らしかった。伸ばした指先で掴んだのはいの一番に俺の視線を奪ったものだ。咲き誇る薔薇より、海をモチーフにしたそれを選んだのは自身の記憶に根強く残っている所為だろう。……シャボンにも惹かれたが。
 白いバスタブに満たされた透明な湯に、選んだ小袋の封を切って傾けた。ザラザラと青く荒い結晶が、湯の中へと少しの飛沫を上げながら落ちていく。淡い青が透明へと拡がり、右腕を差し込んで何回か掻き混ぜれば青い粒子は直ぐに視覚で確認出来ないほどに液体へと溶け込んでしまった。淡い青に色付き塩分の加わったそれは何時かに描いた海を思わせる。両の手の平で器を作り掬い上げれば、俺の手の中に海が出来た。潮騒は聞こえてこないが、きっと舐めると海の味がするだろうと思った。さすがに、口にはしなかったけど。
 僅かに水滴を滴らせながらリビングに戻った俺に、ナマエは少々声を荒げた。ちゃんと拭かないと風邪をひくだなんて母親のようなことを言った彼女に、俺は肩に掛けていたタオルを手渡しながら言う。じゃあ君が拭いてくれ、と。彼女は快く俺の手からタオルを受け取ってくれた。
「メローネ、髪、綺麗」
 何故か切れ切れに単語を発したナマエに、俺は自身の頬が緩むのを感じた。髪の水分を拭われている為に少しばかり揺れる頭と身体で、俺は彼女へと口を開く。
「ん。ありがと。……昔の方が、好き?」
 だなんて聞いてしまったが、別に感傷的になっているわけじゃあない。そのはずだ。
 ナマエは俺の質問に僅かばかり唇を突き出して考えているようだった。俺は揺られながら彼女の答えを待った。自身に似つかわしくない緩やかな時間の流れ方に、俺は胸中で嘲笑うしかない。皮肉めいたそれもこれも本心が何処へ行っちまったのか、本人といえど解らない。
「んー……どっちも好き、かな。とろっとした蜂蜜みたいな色で、美味しそう」
「食べてみる? その代わり、俺も食べるよ」
「何を?」
 俺はジッと彼女の唇を見た後、意味有り気に自身の口角を吊り上げた。視線を逸らしたために彼女の赤くなったであろう顔は窺えなかったが、きっと林檎以上に赤いはずだ。俺の笑い声が空気を震わせた。
 ところで俺はソファに座ったままに壁に掛けられていた絵にふと気付いた。そうして今の今まで誰かさんを笑っていた俺は、全人類皆が皆俺自身に人差し指を突付けて笑っているような気分に陥った。額縁に入れられ僅かに色あせたそれが何なのか分かった瞬間、俺は弾ける様な感情のままに身を屈め自身の頭を抱え込む他に許されなかったんだ。
「なんで、……」
「なんで?」
「なんで、あの絵を飾ってるんだ……!」
 彼女の部屋には合わないだろうに。薄暗い海が、鳴り響かぬ潮騒を表したままに其処に在った。その絵を描いたのが誰であるのかだなんて、痛い程に分かっていたから、俺は顔に一層の血を巡らせるのだろう。頬が、熱い。
「だって、私の宝物だもん。覚えてる? 渋るメローネにどうしてもって言って貰ったこと」
「あぁ、……覚えてるよ。直ぐ後のことも、ね」
「あっ、……う……それは思い出さなくて、いいよ」
 二人して顔を真っ赤にしてどうするというんだ。今この瞬間に彼女と視線を打つけたならどうなるか分かっていた俺は、無理やりに視線を窓硝子へと向けた。其処に見える暗い夜の景色に、頭を悩ませる。こんなの俺じゃないみたいだ。何時だって好き勝手に、自身さえ騙すような言動を繰り返していたというのに。
 記憶の中で頬に口付けたのは確かに俺だった。それでも、この瞬間に俺の頬へ唇を寄せたのはナマエだった。俺が俺を抑え付けていたのも知らないで、彼女は俺へと触れたから、俺だって本能のままに彼女の唇へと噛み付く他無かった。記憶と重なるが、記憶の中のそれらはこんなに求め合うものじゃなかったはずだ。俺とナマエの指先を絡め、重ねる其処では舌を絡める。互いに大人になったことを強く感じた。
 苦しそうに息を漏らしだしたナマエに、名残惜しいが指先も舌も離して解放した。彼女は瞳にとろりとした光を宿して息を整える。
「……ナマエ」
 俺が彼女の名を呼ぶと彼女は、弾かれたように立ち上がった。途切れたり何かに引っ掛けているようなその言葉はどうにも、おやすみと俺に言ったものなんだと思う。ナマエは慌てたように扉の向こうへと姿を消した。其処が寝室らしい。バタンッ! と二人の代わりに大きな音を上げた扉を呆然と見守った俺は、知らず知らずの内に入っていた両肩の力を抜いてソファへと身体を沈めた。タオルケット一枚も無いけれど、バスタブの中で眠るよりはマシだろう。消しに立ち上がることも億劫で、灯りは点けたままだ。眩しい。それを遮るように自身の片手の甲を瞼の上へと乗せた。肌から肌へ伝わる熱も、吐き出した息も、吃驚するぐらいに熱かった。

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