おれはその時、床に座り込んだまま絵を描いていた。そこにシスターがやって来て、おれの名前を呼ぶ。深海から引き上げられたかのように絵を描く作業から意識を浮上させ、おれの名を呼んだシスターへと視線を向けた。
 彼女は目尻の皺を深くしていつも以上に笑んでいたんだが、その彼女の背後、腰の少しばかり下の辺りに隠れるようにして顔だけを出してこちらを覗く女の子がいた。見た感じはおれより年下。人見知りなのか、食い込んだ指先でシスターの服に皺を深く刻ませている。
 僅かに開けていた窓から潜り込んで来た風が、カーテンと女の子の前髪を揺らした。それが掠める瞳は深い蒼色をしていて、おれは今の今まで自身が描いていた絵を見下ろして、比べてしまった。まるで、まるで彼女のひとみは――。
「海みたいだ」
 こちらを窺う様に顔を出した女の子は、ぱちぱちと睫毛を打つからせながら、果実を思わせる色の唇を開いた。
「うみって、なあに?」
 女の子の名前はナマエ。その時はその女の子の唇が自身の名を紹介することはなかったが、シスターが女の子の名を呼んでおれに言ったんだ。彼女はナマエ、今日から皆のお友達よ。仲良くしてあげてねってね。そうか、この子も孤児か。おれは、僅かにクレヨンで汚れた指先を服の袖に擦りつけた後、立ち上がり、隠れる女の子を覗き込んで手を差し出した。
「君に海を見せてあげる」
 また風が穏やかに吹き、揺れる画用紙。紙が立てた擦れる音は、塩水の水溜りが造る潮騒には似ても似付かない。
 初夏の、始まりだった。

 柔らかな朝日をシーツの中、丸めた身体のままに受けるおれはまるで飴玉のようだ。カーテンの間から差し込むそれがおれの身体全体へと当たっているのだろう。まるで母親に抱き締められているかのように、暖かい。それだから、放っておかなかったのだろうか。おれの身体をゆさゆさと揺さぶり起こそうとするその手は、おれが溶け切ってしまう前に意識を浮上させたかったらしい。
「……起きる。起きるよ、だから」
 ナマエ。彼女の名を呼びながら、おれはまだ眠気の残る自身の瞼を曲げた人差し指で擦った。僅かにぼやけるおれの視界で目一杯に頬を綻ばせる彼女は、俺の起床をお待ちかねの様子で、シーツへと両の手の平を突いている。
「メローネ、おはよう!」
「おはよう。……まだ眠いけど」

 ナマエは何故だかおれに懐いた。おれはシスターに頼まれたからなのかそれとも、親鳥が歩けば後ろを着いていく雛鳥の様な彼女の姿に思うものがあったのかしらないが兎に角、自身に懐いて縋って来るその指先を無碍に扱うことは出来なかった。
 その日は伸ばされた彼女の右手を自身の左手で取って絡め、庭内へと足を運んだ。おれの反対の手にはスケッチブック。色鉛筆が入ったケースはナマエが持って。
 おれとナマエの二人が並んで背を預けて座っても充分に余る幹を持った、庭内でも一番長く生きてきたであろう樹の下で、二人で絵を描いて穏やかな時間を過ごした。二人でと言っても、もっぱらおればかりが絵を描いていたが。彼女はおれの手元を頬を緩ませたままに覗き込むばかり。彼女の視線がむず痒い思いでも、おれは白い紙に目に映る以外のものを写し続けた。少し離れた所で遊ぶ他の子供達を見ているようで、描いたのは虎や豹だったりする。虹色に反射されたシャボンが絵の中で舞い上がったのは、隣の彼女から香る石鹸の香りの所為だったのかもしれない。
「メローネは絵が上手だね」
「絵が上手くたって、なんにもならないけどな」
「絵描きさんにならないの?」
「なれないよ」
「なれるよ」
 ナマエは本当におれが絵描きなんてものになれると思っているようだった。絵描きだなんて職種の人間になる気は一切無かったが、何気ない日々の合間に彼女の隣で絵を描いて穏やかに生きていけるなら、それが素晴らしいことに思えて仕方なかった。シャボンは絵の中でぱちぱちと弾ける。

 絵筆を透明な水の中に浸けると、乗せていた青がゆらゆらと水の中に溶け出しやがて、透明な水を淡い青色に変えた。パレットの上の先程より濃い青を筆に取り、絵を色付け、また水で筆を洗う。画用紙に海を描いているはずが、絵筆を洗うための水を海にしているような気分になった。おれの隣でナマエは、水に人差し指を差し込み掻き混ぜている。
「メローネの頭の中に入りたい」
「ナマエは少しでか過ぎる。おれの頭が破裂しちまう」
「そう意味じゃないもん。……じゃあ、メローネの描く絵の中に入りたい」
「うーん、……それも困るな」
「なんで?」
「俺の隣にいて欲しいから、かな」
 絵の具が溶け出した水が床へと撥ねた。波間の岩辺に当たって弾けた様なそれは、ナマエがピンッと指を跳ねさせた所為で打ち上げられたものだ。床を少しだけ濡らした彼女は、赤の絵の具は使っていないというのにその頬が朱に染まっていて、白雪姫を思い浮かべた。おれは絵筆を適当な場所へと預けて、指が汚れていないことを確認してから彼女の頬へとそのままに滑らせた。彼女の肌は皇かで、白雪姫だなんて思い浮かべたそれがなんら可笑しいものでもないように感じる。
「っ海!」
「海?」
「見に行きたい!」
「……随分話を逸らすのが下手だなあ」
「うっ、海見たいんだもん!」
「ふーん、海」
「しおさい!」
「潮騒。ナマエ、……泳げる?」
 指先で彼女の髪を遊ぶおれに、ナマエは頭の中で海を思い描いているらしかった。海面に日光を反射させる様にきらきらと眩い彼女の瞳に、俺の姿が映りこんでいる。不思議な気分だ。彼女の思い描く海に、おれはいる。
 その日描いた波打ち際の絵をナマエは欲しがった。薄暗く彼女の思い描く海の理想には程遠いそれにおれは渋ってしまったが、彼女はこれがどうしても欲しかったらしい。それならばと絵を差し出したおれに、彼女は頬を綻ばせてありがとうを言う。鼓膜を擽るその言葉が照れくさかったんだと思う。おれはナマエの頬に自身の唇を寄せた。二人して林檎の様に頬を真っ赤に染めて、照れ隠しにも何にもならないままに視線を打つけ合い、どちらともなく互いの唇を重ねた。
 夏の、終わりのことだった。

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