沈みかけの太陽は今にも地平線を焼き尽くしそうだ。隣の彼女は人工物の芸術に息を詰めて魅入るが、俺は一息毎に塩辛い空気が自身の肺を満たすものだから、思わず涙腺を潤ませてしまった。
 あの太陽になりたい。だなんて、ただぼんやりと俺が呟いたその言葉に彼女は、海になりたい。だなんて返してみせた。鳴り止まない潮騒が俺の鼓膜を震わせる中、彼女の穏やかな声まで俺の鼓膜と身体を震わせるんだから、堪らない。俺の帰る場所で在りたいだなんて言って笑ったナマエ。
 砂浜に四肢を投げ出した身体へと俺は銃口を向けて、目を瞑る。閉ざした視界で際立ったのは聴覚だ。弾けるようなその音より、ただ、潮騒が耳障りだった。



「こんにちはお嬢さん。君の好みを一つずつ事細かに俺に教えてくれ!」
 人込みを縫うようにして通りを抜けた俺は、その先で歩みを進めていた目当ての女の腕を掴んで引き止めるように声を上げた。添えられていた写真より幾分短く揃えられていた後ろ髪。それで晒されるようになった首筋に黒子を一つ見つけて俺は口角を吊り上げる。ベネ。
 女は俺が声を掛けたことで、いや、腕を掴んだことで歩みをぴたりと止め、自身の腕を掴んでいる人物つまり俺へと振り返った。途端に見開かれる目に、瞳が宝石の様に煌くものだから、俺は内心罠に掛かった獣を見る目で女を見返す。
「メローネ……?」
「……え?」
 ところが銃で撃たれたのは目の前の哀れな獣なんかじゃなかったんだ。俺さ。俺は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で女の目を見下ろす。一夜でも抱いた女だっただろうか。いや、違う。身に覚えの無い事は多々在るが、それでも違う。多分。
 俺がその女の瞳の中から自身の記憶を四苦八苦して引き摺りだそうとしているのに気付いたのか、女が答え合わせだと口を開いた。
「ナマエ。……覚えてない?」
 名前を聞いて思い出すというなら、標的の情報を書かれた書類を目にした時点で何か思い出している。つまり、俺は目の前の女の名前を聞いても、まったく何一つ脳裏に浮かべることが出来なかったんだ。
 俺が片眉を吊り上げているものだからか、女は人差し指を自身の下唇へと当てて、僅かに思慮に耽っていた。そうして薄く開いていた唇から海、潮騒、メローネ。と、単語が幾つか漏れる。その言葉が俺の鼓膜へと滑り込んだ瞬間。俺はアッと声を上げた。ナマエの唇が囁いたその単語は、俺の記憶を閉じ込めた箱の鍵に成り得たらしい。その箱は今の今まで深く深くに沈んで埋もれ、形を顰めていたというに、浮かび上がるとやたらと鮮明に脳裏へと拡がる記憶。目の前の彼女は、あの頃より大人びて綺麗になっていた。昔だって綺麗で可愛い子だったんだが、少しだけ幼さを残した大人の女の顔で彼女が悪戯に微笑む。
「思い出した?」
「よく、……俺だって気付いたな」
 俺は一寸も思い出せなかったというのに。そりゃあ俺だって、整形したわけでもなければ、暗殺任務の為に変装をしているというわけでもないが、あの頃の面影を残していたとしても、パッと見で分かるものだろうか。彼女のその指先で良く引っ張られていた髪は、あの頃は肩に着くか着かないかの長さが基本だったし、何より本来のものとは掛け離れた色に染めてしまっている。片目を隠すようなアイマスクだって記憶に無いだろうに。
「分かるよ」
 それなのに、目の前の彼女は頬を緩ませて言う。
 きめ細かな白い肌。その頬が朱に色付けば、その色は林檎を彷彿させる。童話に出てきた白雪姫なんかを、あの頃の俺は彼女に重ねていたはずだ。彼女の微笑みは今も、一つも変わることなく俺の目前へと晒されて、俺は自分のすべき事を忘れたように呆然と立ち尽してしまった。

 だから、安っぽい香りを放つ紅茶のカップを見下ろして、俺はハッと我に返ることになった。自分の右手の指先が、カップの取っ手を引っ提げるようにして持ち上げている。視線をティーカップから対面の席へと向けると、其処には俺と同じように紅茶を口元へと運んでいるナマエの姿があった。俺の肩の代わりに、カップの中の紅茶が跳ねた。
 俺は何を暢気にお茶なんてしているのだろう。暗殺の標的は、目の前で穏やかに紅茶を啜っているというのに、ひとっつもそういう気が起きない。致死性の薬が入った小瓶だって懐に住んでいるし、此処で使うには物騒な銃の一丁ぐらいも腰の辺りに忍んでいる。いや、比喩表現じゃあなくて、本物の銃のことさ。
「ナマエ、は」
 中途半端に言葉を発した俺に、彼女の飲んでいる紅茶が穏やかに波立つ。俺の言葉は、彼女の名前になる音が発したままに喉に引っ付いてるみたいで頼り無いものだった。呼び辛い。呼んでいいのか分からないしまた、呼ぶとさらに殺り辛くなるということが俺には分かり切っていたんだが、それでも、多分、俺は呼びたかった。
「ナマエは、海、見れたのか?」
 他人が聞いてもありふれたものしか感じ取れないであろう俺の台詞に、目の前の彼女は目を細め、僅かに口角を吊り上げて笑んだ。そして一度頷く。つまり、経験済みを表す答えだ。俺が瞬きを一度した後に、彼女は唇を薄く開いて発音する。でも――。
「……でも、全然違ったの」
「違った?」
「うん。きっと、メローネの所為ね」
「俺の?」
 一人で見た或いは俺じゃない誰かと見た海は、味気無いものだったのだろうか。塩分過多のただの液体の集まりにしか過ぎなかったのだろうか。じゃあ――。
「俺と、もう一度見に行こうか」
 だなんて言ってしまったが、良かったのだろうか。
 え? と、目を僅かに見開いたナマエのぽかんと半開いた唇が、カップの淵から少し距離を置いたままに子音を漏らした。その様に俺は言い訳染みたことをいうべきだったのかも知れないが、ほんの少し突き出した唇で空気を噴出して笑ってしまう。
「メローネ、この近くに住んでるの?」
「いいや。でも、暫く此処に滞在するからさ。ナマエは、一人で住んでるのか?」
 質問の答えは本当は既に知っているのだが、俺の質問に彼女は律儀に答えてくれた。
「うん、そうだよ」
「恋人は?」
「いないよ。いるわけないでしょ?」
「そんなまさか。此処はイタリアじゃないのかもしれない。寧ろ此処に男は住んでいないのかい? それとも、ゲイばっかり?」
「もう、メローネったら」
「彼氏がいないってなら、暫く俺に寝る場所を提供してくれないか? 空っぽのバスタブでもソファの真下でも良いからさ。なんだったら添い寝しても良いがね」
「バスルームで寝るだなんてゴメンだわ。ソファなら、どうにかメローネを寝かし付けられるかも?」
 懐の中で錠剤が硝子瓶に当たって嘲笑う。ターゲットに接近するのは何も悪いことじゃあない。結局は誇示付けにしかならない言い訳を胸中で呟いて、俺は不味い紅茶を一息に飲み干した。それは何故だかしょっぱくて不思議な味がした。

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