日が昇るまでもう少しだろう、まだ太陽にあたためられていない空気がひやりと肺に満ちる感覚を覚えながら目前の扉をノックした。部屋の持ち主の応じが聞こえてこず、カップ二つを乗せたトレイを落とさないように気を付けながら片手で支えあいたもう片手でドアノブを回す。先程まではカップの中の珈琲の香りに鼻先を擽られていたけれど、扉を開けると同じに鼻先を撫でるように掠めたのは花の香りだ。それも薔薇、強い香りというわけではないけれどその花と分かる香りが私の肺を徐々に満たしている。いや、もしかしたら薔薇ではないのかもしれない。薔薇を模した飾りを携えた装いからの香り、その人の香りをそう覚えてしまったからこう認識するのかもしれない。
 いつもはこの早い時間帯でもちょっとの乱れもない身形で椅子に座って学術書だったり研究レポートだったりに目を通しているその姿が今朝はなく、部屋は無人の状態だった。明らかに誰もいない部屋だが何とはなしに辺りを見回しながら、デスクにトレイを預ける。びっしりと文字の綴られた用紙を汚さないように気を付けて。几帳面なその字体はまさに博士、その人を表しているようで目にする度になんとも心臓がむず痒いような思いがする。触れて文字を追っても擦れないのを確認して、指の腹で単語のひとつを撫でつけた。とは言っても、無音のこの部屋で、博士の部屋でそうしたことをするのはとても緊張して、私はまるで肌の表面の産毛でも微かに撫でる程度のものだっただろう。そうしてそのような心持ちだったので、特に私は肩を跳ね上げたものだっただろう、がちゃりと開いた扉に。
「っぁ、ぁあ博士、おはようございます……! 徹夜、仮眠をなさっていたのですね……!」
 博士のさらりとした髪に寝癖を見受けるのは珍しいことだ、大地に関する知識で私が博士に優るぐらいに。つまりはありえないことだ、と、思っていたのであまり見てはいけないと思いつつもその髪先を時折に見、そうして仮眠を取っていたのだなと察する目元を見ることを横目止められなかった。
「おはよう、……時間は」
「あっ、大丈夫です! と、言っても、もうそんなにだと思いますが……。今朝はそのまま休まれた方がよいのでは……?」
「いいや休むなど有り得ない、大地が太陽に耀くその瞬間は素晴らしいものだからな。また君の淹れてくれた珈琲が無駄になるのも承諾しかねる。君が今朝はその瞬間をわたしと共に目にしたくないというなら話は別だがな。……冗談だ、充分に睡眠をとった君の方が顔色をそうも悪くするんじゃあないぞ」
 博士の手がカップのひとつを取り、そうして足は歩を進める。もたもたしていたら日が昇り始めてしまうからだ。私も自身のカップを手に取り置いて行かれないように博士の背を追う。とは言っても置いて行かれるだなんてこともないのだけれど、扉を開け私を待つ博士の姿にそこがずるいと思わずにはいられない。
「もたもたするな、だが躓くほどには急ぐなよ。何も寝癖を撫でつけながら向かう暇も無いというほどではないからな」
 自身の跳ねた寝癖を指先で摘まみながら、そうして此方を向いて言ってくるものだから、そういうところがまたずるいのだ。
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