場面は、場面はそう司書の唇が乱歩の唇に打つかるところから始まる。打つかるといってもそれは恋人同士が唇をあわせたに違いない、けれども乱歩の孔雀青した目が僅かに見開かれたさまといったら。彼の視線の先、仄かに伏し目の司書の睫毛がふるると震える。それで彼女の上目遣い、乱歩の喉仏はごくりと上下する。何も彼が呑み込んだのは唾だけではない、ぬるく甘いその液体もまた乱歩の喉奥へとそうしてとっぷりと胃へと落ちていく。
 そうだ乱歩は液体を飲んだ、恋人からの口移しのそれで。
 乱歩が飲み下したのをたっぷりとした時間で待った司書はそれからようやっと彼のタイから手を離す。唇をあわせるに引いたそれだ、布地は彼女の指先に少しのしわ。ぽたりと垂れてしまったらしい液体に歪な染みが僅かにひとつ。
 ふぅと息吐いたのは互いに。まずはと胸を撫で下ろして司書は視線を乱歩へと。自身が口移した液体に塗れた彼の唇に眼差し、一度逸らしてまた彼へと。
「どうしたのですか、一体」
 濡れ光を灯した彼の唇はこれ当たり前といった疑問の言葉を紡いだ。何も口付けるそれが初めてであったわけではない、けれども突然のさまで液体を口移されるのは初めての経験だ。数回の感覚の狭い瞬き、乱歩の驚きを顕にしているようで。
「媚薬など存在しない、と乱歩さんは思いますか」
 乱歩の疑問へと司書は答えを返した、一見答えに聞こえないものとしても。彼女の唇もまた濡れ光を灯したままで言葉を紡ぎ続ける。
「うん、思っているでしょう。確かに、媚薬は存在しない代物です」
 彼女の言葉に一度小さく頷いた乱歩、それはどのような意味を持っているともいえず。
「けれどそれは乱歩さんの生きた時代であった話です、そうして私はアルケミストです」
 つまり、つまりだ、彼女の言おうとしていること答えが見えてくるようだ。
「余裕無く乱れる乱歩さんが見たかったんです。――どうでした、媚薬のそれは美味しかったですか?」
「び、やく……」
 彼の声はなんとも呆気に取られたそれだ、その後に平時他の人を驚かすばかりの乱歩が見せた狼狽の色。それに、成功の兆しを司書は見た。唇を綺麗に吊り上げて見せるさまは艶やかでもあるがこれで彼女は緊張していた、乱歩を罠に嵌めるにだ。故にその喉はからから。スキップさえしそうになる体でそれでも余裕たっぷりといった歩み、テーブルの上の水差しを傾ける。硝子コップの水を飲み干した。
「私の持てる技術を注いだものです、どうでしょう? 即効性なるものにしておいたんです。火照りを、覚えてきませんか?」
 硝子越しに乱歩の姿を通し、司書は笑んだ。
 さて読者諸君には早々に知らせておこう、乱歩が司書に口移し飲まされたそれは単なる砂糖水であることを。けれども司書はあくまで自身が乱歩に飲ませたそれは媚び得る薬であると唇に紡ぐ、彼へとよぉく教え込む。
「どきどきするでしょう、まるで体全体が心臓のように。熱くなってきましたか? けれどもぞくぞくともするでしょう、嫌じゃないでしょう乱歩さん?」
 心臓のより早い脈打ち、体の隅々へと巡る血潮。先から先へ巡るそれは何も血潮だけではない、ぞくぞくとしたその感覚は熱の燻り。快楽を共にした焦がれ。
 司書の眼差しの先で乱歩は僅かに身を折るようにして後退した、彼の片手は胸元に。痛いばかりに脈打っているとばかりのその仕草だ。またその唇から零された息、吐息は確かに熱を孕んでいるようで。乱歩が熱を燻らせるさまに司書もまた彼のようにその頬を紅潮とさせ、零される吐息の甘さ。
 彼女が狙ったのはプラシーボ効果だ、つまり思い込みのその作用だ。司書は恋仲とはいえなかなか余裕を崩すことない乱歩のそれを崩したかった、見たかったのだ乱れるさまを。さてそうして彼女がしたことといえば相談、相手は谷崎氏。思えば彼女に罠など考え付くはずもなく。そうして媚薬などといったものが本当に存在するかなど、自身に錬成できるかなど、彼女は知らない。
 乱歩の朱に染まった頬や額に浮いた玉粒の汗、そうして彼女へと向けられる仄かに潤んだ眼に孕まれた確かな情欲の影。はぁはぁと荒い呼吸が、静かな部屋には響いて聞こえる。二人の体の状況など素知らぬ顔で部屋は静寂めいている、司書の唇さえ今は荒い呼吸を零している。
 そろそろだろうか、ネタばらしの頃合は。それでさらなる崩れを見ることができるかもしれない。どこかぼんやりとするような頭で司書は思う。媚薬なんて使っていませんよ、プラシーボのそれですよと、教えよう。それだから司書は唇を開いた、なんだか息切れを覚える肺にすぅと酸素を取り込んでから。
「では、」
「種明かしと参りましょうか」
 肩を跳ね上がらせたのは彼女だ、彼ではない。司書の言葉は乱歩のその声音に遮られたのだから。
 司書の鼓膜を震わせた乱歩の声色は平時のそれであった、至って普通の、なんともないそれであった。司書の肩が跳ね上がり終えた頃合には彼は僅かに折っていた身もただにしゃんとした背筋に直し、そうして数回の瞬きと共に深められた唇の笑みは、ああ、彼こそが江戸川乱歩だと。
「なっ、えっ?!」
「アナタは詰めが甘いですねぇ、そこもまた可愛らしいものですが」
 乱歩は額に浮いていた汗をハンカチを軽く押し当てるようにして拭う、いやもしかしたらそれは汗ではないのかもしれない。それは用意された汗に見せかけの。
「ど、うしてっ!」
「谷崎さんが、中立の立場であったということですよ」
「まっ、まさか……!」
「ええ、ええ、そのまさか。アナタの謀は最初っから存じておりました。解ったうえで頂戴した砂糖水に一芝居打ったのです」
 弧を描く唇に彼の人差し指が添えられる、そのにんまりとした笑みのさまといったら。
「なかなかに役者でありましたでしょう、ワタクシ」
 乱歩の言葉に司書は僅かな目眩を覚えたようにふらついた、それも距離を詰めた乱歩に支えとめられたものであったが。
「プラシーボ効果とはおもしろいものだ、しかしながらワタクシは脚本を知っておりましたので如何せん」
 何を言い訳したものかと、それでも引き結ばれた司書の唇。それに乱歩の指の腹が触れては此方が暫し前に悪戯をしたのですよねぇとばかりにむにゅむにゅと。
「そうだそうだ、種を明かさねばなりませんでした」
「……え?」
 種なら明かしたばかりじゃないか、そうと司書は驚いた。彼女のその様子は乱歩の心を喜ばせる。愛しい人の感情を動かすことの楽しさ喜ばしさは言い表すことできないものだ。
「確かに、媚薬など存在していないとばかりに思っておりました。けれども今生はなんと摩訶不思議なことでしょう、賢者の石なるものがたった一枚の硬貨で得られる時代ですからねぇ」
 孔雀青の眼差しはつぃと見た、それは司書がほんの少し前に傾けた水差しそれだ。どきりと跳ねた彼女の心臓、いや体。体全体はまるで心の臓のようで。
「どうでした、媚薬のそれは美味しかったですか?」
 果てさて、それは真か偽りか。
 自身が彼に勝ることなどありえないのだと、彼女は脈打ち早い心臓の音を聞いたのだった。

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