「すみません、春夫さんいますか? 此方にいると聞いて来たんですが……」
 コンコンッと響かせたノックの音は私が立てたものだ。探しているのは春夫さん、けれども私がノックしたその部屋の持ち主は乱歩さん。別段おかしいこともない、探し人である春夫さんの居場所を他の人に聞いたら此処だと教えられたから、それだけだ。
 私の問いかけに扉越しに聞こえてきたのは春夫さんと乱歩さんの声で、確か彼らが部屋にいるようだ。どうぞとの乱歩さんの声に私はドアノブを回し静かに扉を押し開ける。
 あっ、と実際の声には出さずに私は驚いた。
 部屋に入るにほのか俯けていた視線を上げたその先、乱歩さんの姿。それだけではなんら驚くことなどないのだけど、見慣れない光景がそこにあったのだから。彼のしなやかな指先は細い管のようなものを挟み、視線で辿れば唇がそれを咥えている。寸秒に送れてそれが煙管というものだと気付き、伏し目に細く煙を吹き出した彼の唇に意識が持っていかれた。いいや、意識を持っていかれたのは彼そのものだったのかもしれない。兎に角、煙管を咥えた乱歩さんに酷く動揺したのだ。
「俺に何か用か?」
 春夫さんの問いかけに肩が跳ね上がったものだ。釘付けになっていた視線をどうにか逸らし、彼へと渡すべく持っていた手紙を差し出す。それと同じに谷崎さんがお呼びでしたよと付け加えれば春夫さんは明らか嫌そうな表情をしたものだが、それでも応じ一つに谷崎さんのもとへと出向くようであった。
 手紙を手渡すに部屋へと入っていたものだから、乱歩さんの部屋には彼と私が残ることとなる。当たり前、けれどもそれが妙に心を騒がせる。それも、仕方の無いことなのだけど……。
「あの、……乱歩さんが喫煙者だとは知らなかったです」
 私がそう言うとどうだろうか、いつも弧を描いている彼の唇の調子が悪いような気がする。どうにも罰が悪いといったようにも見える。返事の言葉を返してくれた声色が確かにそうであった。
「まぁそうでしょうね。これでアナタの目に付くところでは控えておりましたから」
「……なるほど?」
 乱歩さんにそう返したものの、彼が何故そうしていたのかいまいち分からなかった。だから私の呟きのような返事は分からないといった感情をたぶんに含んだものだ。
 ふぅ、と乱歩さんが息吐いた。先程まで煙管を咥えていた唇で。
「煙が好ましくはないでしょう、アナタに」
「……はい?」
「煙が好ましくはないでしょう、アナタに」
 二度繰り返された、同じことを。
 先生方の中に喫煙者は多い。乱歩さんも今し方知ったばかりであるが喫煙者、けれど今まで一度とて乱歩さんの喫煙風景は目にしたことがなかった。そうして先の言葉。つまり、私への配慮だ。私への、配慮だ。どきりとした。仕方ない、私の胸が苦しくなるのも仕方ない。
「あの……」
「何ですか?」
「美味しいんですか?」
「……はい?」
 私の質問に乱歩先生は少しだけ呆気に取られたような声色だったように思う。けれど、そう、これは私にとってチャンスであったのだ。
「気になります、あの、煙管……ちょっとだけ、というのは……」
 私は乱歩さんが未だ指先に携えている煙管へと視線を注ぎながら言う。それは私が部屋へと入る際に中身は捨てられたらしく紫煙を上げていなかったが。
 煙管に、その味に興味があるわけではなかった勿論。ほんの少しも興味が無いとは言えないが、私の真意はそこにはなかった。言ってしまえば、そう、下心でしかないのだ。
 ――旨くいけば間接キスだ。
 何を隠そう、いいや自身にだけだけど隠していないのは兎も角、私は彼が好きなのだ。江戸川乱歩という彼、その人が。確かにご飯を青くしたりちょっとした悪戯を仕掛けられるのには困ったものだけど、ふとした折に感じる彼の気遣いや魅力に惹かれて今に至るのだ。絶賛片思い中なのだ。というわけで仕方ない、こうも胸が騒がしいことは。
「駄目に決まっているでしょう」
 乱歩さんの言葉はぴしゃりっとした響きであった。
「あ、駄目ですか……?」
「何のためにワタクシがアナタのいない所でこれを嗜んでいたと思っておいでで」
 煙管から視線を上げる、彼の鮮やかな目の色がどことなく蒼さを深めているような気がした。ああ、これは駄目だと理解する。目が笑っていないとはこのことだ。
「わっ、分かりました……。どんな味がするのか気になったのですが、我慢します。……ええっと、では、失礼しますね?」
 どことなく彼の片眉がぴくりと跳ねたような気がした。
 なけなしの勇気が良い結果を生まなかったとあれば私はいそいそとこの場を去るしかない。一刻も早く去りたかった。早足で扉の前へ、そうしてドアノブを手に。ガチャガチャと少し慌しげに回したそれで、扉を引き開ける。そうすれば当たり前だけど廊下が視界に、けれど、そうけれど次のそれは当たり前ではなかった。
 ぱたん。ほんの少しの隙間は見えたと同時に無くなった。その答えはたぶん、視界の右端から伸びてきた腕、乱歩さんのそれが答えだ。
「ら、んぽさん……?」
「……」
 何故か乱歩さんは答えない。扉を開けることを制した腕の持ち主、その無言の空気に振り向くこともかなわない。
「――さん」
「ひっ?!」
 それは私の名で、吐息でくすぐるように耳元囁いたのは乱歩さんだ。
「興味がお有りなのですよね? 味に」
「は、はい……」
 状況に忙しない胸中に私は大変心許無い響きの返事、けれども私の言葉は確かに彼へと聞こえたようであった。
 だからたぶん、乱歩さんは私の手首を捕まえ彼自身の方へと振り向かせたのだろうし、互いの眼差しを一致させた後ににっこりと微笑んだのだ。そうして笑んだその唇で、私の唇に、触れたのだ。
 ちゅぅ、などと音がした。
 どうして、何故、何があった、なんだ、私は夢を見ているのか、どういう、どういう。兎にも角にも寸間の触れ合いに私の頭はパニック状態だ。わけがわからない、わかるはずもない。
 私の混乱を他所にあまりにも近い距離で得意げな表情を見せてくる乱歩さん。
「どうでしたか。感想をお聞かせ願えますか?」
 ねえ、と微笑む乱歩さんの唇の弧はいつもと同じ、けれども同じじゃない。艶やかだった。
「そっ、んなの分からなっ……!」
「おやおや……、ではもう一度?」
「なっ」
「そんなに身構えることもないでしょう、知りたいのですよね? 好奇心が有るというのは好ましいことです。さあ、楽になさってください」
 もう一度とされても分かるはずがない。そう思った私の気持ちは顔に出ていたに違いない。彼はそれに返しの言葉を紡いだのだから。
「もっと深めれば、分かるでしょう」
 音を紡ぐ彼の唇から、視線が外せない。
「ええ、ええ、これは……仕掛けた甲斐があったというものです」
 仕掛け、そう音無く繰り返した乱歩さんに、ただかちゃりと鍵が閉まる音がしたことでありました。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -