「初めまして、江戸川乱歩さん。私は――」
 例えばそれは白黒映画が途端に着色映画になってしまったような。例えばそれは観衆のざわめきの中に訪れた不可避の静寂のような。私の生前のそれとは違う後に知った孔雀青色した眼、これに映る彼女の姿はまるで周りに花が咲き誇ったものでありました。まどろっこしい言い方は止しましょう、つまり私は彼女に所謂一目惚れのそれをしたので御座いました。それは、初恋。初恋と呼ばれるそれです。今生のそれなので初めてのものだと言ってよいでしょう。私の心の臓はその折まるで何者かの拳に握り込まれたようで、この胸は酷く苦しく切なくなったものです。彼女が物言うに薄く開いた唇から視線が外せなくなり、一音一音のこの鼓膜を震わすその感覚に酷く居た堪れなくなった。そのような、心持。有魂書への潜書、それにより今生へと転生されたこの私は刹那に恋の心に蝕まれたのでありました。

 私が文学書を穢す侵蝕者と呼ばれるそれらとの拮抗、それに身を浸して幾分が経った頃合でありました。勿論私の恋の心は依然として身を焦がしております。いえ、寧ろその心は初めのそれより酷くこの身を苛んでおりました。気付けば彼女を視線で追い、思考は彼女に埋め尽くされ、彼女が視線を向ける全てに悋気の念と呼ばれるそれらを孕んでいたのは否定できません。没した年齢を考えるとあれですが、兎も角、私は少年青年の心持で彼女にただ只管に恋心を向けていたので御座います。焦れてどうしようもなく燻る、思いの熱。それが此の心にいつ何時と在る、それだけでした。
 それで、これは食堂、そこでの私と幾人との会話で御座います。ほんの今日の会話で御座います。
「ワタクシは、彼女のハジメテが欲しいのです」
 彼女の初めて、それは私ではありません。彼女と初対面した文豪の方は佐藤さん。有魂書への潜書でのそれは谷崎さんでありました。口惜しいかな、どれにも私の名が無いのです、この江戸川乱歩の名が。或いは平井太郎の名が。
 それで私は食堂で己が青く染めた米粒に視線、ぽつりと呟いておりました。
「ん゛っ、ごほっ……!!」
 私の紡いだ音に秋声君は何故か咽込んだようでした、その時彼は私の隣の席にて食事を取っていた為にこの独り言にも近い音を聞き取っていたのでしょう。咽込んだ所以は分からなかったことではありますが。
「そう急いて食べなくとも、ご飯は逃げやしませんよ。足りないならワタクシの分もよければ……、食欲が無いのです」
 これは一体全体どうしたことか、そうとして自身の目前の皿を寄せて見せれば反対の席に座る谷崎さんがこれおかしいとばかりに唇に弧を描きながら私を見るのです。見るばかりではありません、音は確かに笑いのそれでした。
「フフフ、……」
「どうか、致しましたか……?」
 たぶん私は小首を傾げていたことでしょう。谷崎さんはそんな私の様子を見てよりにと唇の弧を深めるので御座います。これには感情を覆い隠し余裕を浮かべているはずである私も崩れることです。きっとこの頬は引き攣っていた。それで彼は言いました。
「乱歩さん、ご自身の言葉に気付いていないのですね」
 その言葉、まったくもって理解し難い。
「はい?」
「初めてが欲しいなど、まるで処女を奪いたいと仰っているものですよ」
 今度は私が咽る番でした。
 私の恋のそれは純粋でありました、自身気付いている範囲では無垢なそれだったのです。きっと、そうです。まさか彼女をシーツの波に溺れさせるそれを想像していたなどと……、いえ、正直言いますとそんな画を一度も思い浮かべたことないとは言えません。私の脳は何度と彼女との甘い夜を空に描いたことでありますので。いいえ、いいえ、それはよいのです。言及することでありません。私は咳を繰り返す喉でどうにか言い繕う必要が御座いました。ひとっつも、適いやしませんでしたが……。
「そんな乱歩さんに朗報です、明日からの助手ですよ」
「はい……?」
 この口から漏れた音、とても滑稽でありましたでしょう。
「乱歩さんが、彼女の、助手ですよ」
 交代制ですからね、順番が回ってきたということです。
 谷崎さんの唇はそう音を紡いで私に聞かせました。これ、困惑混乱。理解が追い着かない、それでありました。特務司書である彼女の任を補佐する助手、それは彼の言う通りにある一定の日数の後に交代のそれでありました。よくよく考えたら、私にそれが回ってくるのもおかしいことでは御座いません。それでも、私にしたらそれは青天の霹靂と言うものだったのです。まるで落雷に打たれたそこいらの野良犬。尾っぽをびんと立てたままなのです。
「嘘、偽りでしたら……どうとなるか承知できませんよワタクシ自身……」
「アラ、これはこれは……期待してますよ、乱歩さん」
 果たして、果たして、谷崎さんが私に何を期待しているかなど私に分かるはずも御座いません。けれどもその時の私といったらただ頷いてみせるだけでした。ただ、頷いてみせるだけの男だったのです。

 それで、明日というのは焦れる私にたんまりとした時間を与えた後に漸くとやってきたのでございます。この眼差しの先には書類に万年筆、それを走らせる貴女の姿。それだけで胸に満ちる思いがありました。満足としたものでは御座いません、欲は罪深い。小さな願い、叶えてしまえば次を次をと望む他無く。私はきっとそう、貴女から向けられる何かを望んでおりました。それは視線、言葉、最大的には思いです。
 ふと、ふと万年筆はその皇かな動きを止めました。鼓膜を震わすその音にも耳を傾けていた私は眼差しによりと貴女を見る他ありません、そうしてそれは大変に結構。あなたはこの視線の先で唇開き声音、確かに私へと音聞かせてくれたのですから。
「……ご存知の通り、私はあまり本を読まない人間でして……。お恥ずかしい、けれど最近は読むようにしているんです」
「そう、ですか」
 貴女が聞かせてくれた声音、それがどれだけこの胸を震わせたことか。きっと分からないことでしょう。けれども、そうけれども、私の胸はそれ以上に震わされたので御座います。貴女に、貴女に。
「あの、乱歩さんの著作も読ませていただきました」
 この肩、体は跳ね上がるしかなく。
「……芋虫、ですね。題名は」
 ほんの少しですか、よりによってそれかと思ったのは。女性は虫など、嫌いでありましょうし。貴女の顔が曇る、それも私によってとあってはこの心が伏せるのも無理無いでしょう。察していただきたい。胸中にて私が蹲っておりました、そうするしかなかったのです。自身の耳を塞ぎ、貴女がこの先に私に向けるであろう侮蔑の音を聞きたくなかった。その声音がどれだけこの心に響こうと、ここまで悲しいことはないでしょう。
 そう、けれど、貴女は本当に幸いです。貴女は、私の全てでありました。
「無償の愛といいますか、純愛といいますか……グロテスクなそれではないのですよね、根本にあるのは愛なのですよね……それが胸にひしひしと……、いえ、あぁ……書いた先生に伝えるのは駄目ですね、このような拙いもの……」
 視線の先、彼女は照れたように言ったのです。心に言ったのです、これは嗚呼、私は意味を違えて胸中蹲る他無い。
「駄目ですね、……いいえこれはワタクシのことです。これは、もう、……嗚呼、お読み頂き光栄です……」
 酷く心許無い、頼りない私の返し。何がエンターテイナーか。何が、何が。それでも言葉を発することができたのが奇跡、それでありました。この頬は燃えているのではないかというほどに熱く、ただ熱く。貴女は、私の心を知らないでしょうね。知らない。

 それで、それで、私の独り善がりの夜は何度過ぎ去ったでしょうか。これは月日が経った頃です。長く、長くに経った先で、御座います。
 その折、何の因果か私は貴女の助手でありました。貴女の側にありました。これは運命、というのかもしれません。
「……乱歩さん、私、手紙を頂いてしまったのです」
「おや、……手紙、ですか」
 平然を装った私、それでも嫌な予感というものはしておりました。そうしてそれは当たってしまいましたね。恋文、などと。
「どうやら、この間あった特務司書の集まりの際に出会った人からでして……」
 貴女のその紡いだ音、この胸、軋む。
「乱歩さん、私は分かりません。恋をするなど、分かりません……」
 貴女が紡いだ音はこの耳を心を喜ばせました、もしかしたら。少なくとも貴女がその手に持った紙ッ切れの先の人へどうとも心向けていないと知れたから。私が身を寄せる術を察してしまったから。
「分かりません、乱歩さん……」
「でしたら」
 たぶん、その時の私の声は上擦っていた。
「でしたら、私がお教えしましょう。恋のそれを、この心を……」
 貴女の手より紙ッ切れを奪い取り、私はただこの孔雀青色を深めます。これは、これは、恋でありました。ただに尊い、恋のそれで御座います……。
「どうか、どうかワタクシをハジメテのそれに、ワタクシにアナタのハジメテをください……」
 初恋は無残に散るなど、誰が決めてしまったことでしょう。私は、私は、そう、彼女を手にしました。多くを省略することをお許しください、時間が許さないのです。ただ、言うなればそう、私は彼女の初めてを得ることができたのです。それが私が当初思っていたそれと、谷崎さんが描いていたそれ、どちらであるかはそう、ご想像にお任せ致しますね。さようなら。

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