彼が瞼を開けた時、その顔先は天を見仰いでいた。双眸――とは言っても彼にとって確かに見える眼としてそこに在るのは右目だけである――が映し込んでいる風景はただ白い虚空、靄がかっているでもないただただ白いばかりの先々が。右目の数度の瞬き、彼は天を見仰いでいた顔先を俯かせる。自身が二本脚で背筋しゃんと立っている地へと眼差し。
 ――私は夜の空に立っている。月無き無窮の夜空、に。
 ドキリと跳ねた心臓を押さえるように彼は胸元の衣服に手、その布地を指先に僅かと握り込む。
 ――おや、心臓は驚きに跳ねただけ。痛いわけではない。思えば、酷い近視の為に曲がってしまった背筋もピンとしている。
 そうだ、彼の心臓はただ驚きのばかりで鼓動を聞かせている。痛みは、患った狭心症故の痛みはひとつも無い。事実にぱちりぱちりとまばたく彼の右目、また足下の夜空に泳ぐ星々も彼の様子に応じるようにぱちりぱちりとその燦めきを。
 仰ぐ先に在るはずの天の河は自身の足下に横たわっているようで、彼はその光景に何か覚えを感じては星々の小波へと言葉無く魅入っている。
 ――そうだ、私はこれを知っている。さんざめくこれらを。火のように燦めくこれは。
 夜光虫だ、と彼の唇は紡ぐ。それが正解であるからか彼の足下、燦めきというきらめきが沸々として鼓動している。それはやはり心臓のようだ。不知火の燦めきがただ彼に知らせている。小さきものが教えるそれに、彼は嗚呼と気付いては言葉にした。
 ――私は確か死んだはずです。なら、此処は言うならあの世或いは生と死の境にある蒼海。わだつみに流星群のようにほとばしる夜光虫の道を歩み、きっとあの世へと辿り着くことでしょう。
 彼は歩み出す、横たわる天の河を。それは、あの世への進み。蒼海のその末にあるであろう死への終い始末への――いいや、いいやそんなものではない。彼の鼓膜を少し揺らして彼を求める声は決して死の神の使いなどではなくて。
 ――私を呼ぶ。呼んでいる、名も分からぬ私を呼んでいる。声ばかりで姿も見えない、乙女の声色で、乙女の霊が私を呼んでいます。
 それで、彼は辺りをきょろきょろと見渡してみるけれどやはり乙女の姿は何処にもなくて。代わりというように彼の視界にひらひらと舞い込んできたのは蝶で、その魅惑のさまは夜光虫の燦めきにも劣らぬものと彼の眼差しに映ったものだ。
 蝶は彼の周りを離れずに舞い飛んで、彼はまるで蝶々に花として懐かれているように思えた。そうしてそれもまた自身がかつて文字で綴ったひとつだと。
 さてでは、この蝶は生きている者の魂が蝶の魂となって辺りを彷徨っているのか、自身は死んだのであるからそれは違うかと。
 ――分からない、けれど蝶というのはとても興味深い。蝶の話を、逸話を私はよく聞き知りたかったことです。
 やたらと自身に懐くように寄り添う蝶を道案内に彼は歩む、もしかしたら道中で蝶が不思議な話を聞かせてくれるかもしれないと心を躍らせながら。そんなことがあるはずないとしても、摩訶不思議なものというのが彼は好きだった。
 それで、彼はずいぶんと時を歩んだ。或いはそれは短い間。蝶と歩む道程は別段苦痛なものでなく、段々と数増す夜光虫の燦めきは目に楽しいもので。引いては押し寄せる夜光虫の燦めきはそれだけで小波、蒼海だ。
 ――夜光虫を辿ることも、蝶の誘いも、語り部となり誰かに聞かせられればいいのに。私のこの奇妙な物語を、誰か聞いてくれないでしょうか。聞いてほしい。
 もしかしたら、怪談にしてしまうかもしれないけれど。もしかしたら。ふふ、と笑む彼は物言わぬ蝶に話しかける。やはり足下では夜光虫がさんざめいて。
 潮騒も小波の満ち引きにどこか大きく聞えるなと彼は思った。歩み出した当初より、きっと大きい。或いはきっと夜光虫が増えたのだ。流星群のほとばしりはあの頃よりずっとずっと多い。
 ――八雲、八雲と私を呼んでいる。或いはヘルンと。私を呼んでいる、そうだ呼んでいる。
 彼の名を、確かに名を知り呼び始めたそれは、夜光虫の燦めきは彼が驚く程に早く早くに増していく。これこそが流星群だ、先までのそれなど比べものにならない、流星群は今、私の足下でほとばしっている。と、彼は光に照らされる。
 気付けば、二十万の燦めきがそこに。
 見仰いだ天のような白の虚空に包まれるようだ。道行きも眼差しにできない白さ。――けれど問題などない。道案内は、いるのだから。白に包まれて、彼は燦めきを少しずつに瞼に閉じ込めていく。そうして感覚は、掬い上げられるようで。
 ――きっと、きっと私は言うのです。私を呼んでいたその声の持ち主に。きっと。



「コンニチハ。ワタシの名前は小泉八雲。ギリシャ生まれデスがいろいろあってここに来ました、デス」
 その人は、きっと語りに耳を傾けてくれることだろう。

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