図書館ではお静かに、そうとした張り紙の端っこがぺらりぺらりと揺れている。どうやら窓が開いている、どうやら其方からちょっとした風が吹き込んでいる。その風が司書の髪をぴゅぅぴゅぅと撫ぜて乱す、けれども彼女の足音が止まることはない。彼女が向かっているのは部屋、潜書部屋と呼ばれるそれだ。途絶えぬ足取りで廊下を歩みその部屋へ、扉を軽く打つ音はノックでコンコンッと。返事の前に、彼女がドアノブを回す前に、その手に重なるのは手。彼女の手に彼の手は重なる、それに司書はほんの僅かに肩を跳ね上げる。驚きに、目だけでも後方を窺おうとするものだ。
「エーどうも、江戸川乱歩で御座います。何卒、お見知り置きを……」
 司書の鼓膜を震わせた男の声、名乗った通りに彼、乱歩のもの。彼女は無意識に詰めていた空気、肩の力を抜いてふぅと息を吐いた。有魂書への潜書でのそれで迎えた新たなるその人は既に図書館内を歩んでいたのだなと、ドアノブから手を離す。
「初めまして、此方の図書館に配属されている特務司書の――」
 彼女も体制は兎も角と自己紹介のそれをする。それに背後の男が頷くような気配を感じた。そうして身を退けられる空気の動きも。
「驚かせてしまったようで。しかしながら、人の感情を引き出すことの愉しさといったらないですからねぇ」
 そう唇に紡ぎながら司書の方に徐に差し出された乱歩の右手、手袋越しのそれが手の甲を地へ天へ。司書の眼差しが其方に向いているのを知りながら彼の孔雀青した眼は彼女とは別のものを見ている。彼女がそれに気付くことはなかったが。
「女性は花でありますが、花からしたら迷惑極まりないことでしょうかね。アナタの美しさに妬いていることだ。ほら、悋気の念にこんなにも色付いている」
 その言葉と共に乱歩の手の平の上には薔薇の花、紅いそれがちょこんと乗っていた。ずっと視線を外さなかったのに何処からと司書は瞬きにその驚きを露わにしている、乱歩はそんな彼女の手へと薔薇を渡してやった。
「エンターテイナーたるもの、このぐらいできねばなりませんからね」
 自身の手の平の上の薔薇をまじまじと見ている司書をさらに驚かせるように、乱歩はその大きな紅い薔薇の上へとさらに幾数の小薔薇を落としてみせた。驚く彼女に一つがころりと零れ廊下へと落ちた。二人の視線が向くことはなかったけれど。
「すごい、ですね!」
「喜んでいただけたなら嬉しいことです。……さてところで、最近の政府のそれは嘆かわしいですね」
 手の平いっぱいの薔薇を楽しむ司書、彼女の肩を抱くようにして乱歩は唇に紡ぐ。
「駒数が足りないからといって、駒に成り得るその品質を下げては元も子もない」
「それは、どういう?」
 薔薇から視線を上げた司書は乱歩の言葉の意味を知ろうとし、彼はそれについて今は言及する気が無いといった風に彼女を見ることもない。彼の眼差しは扉の先を見て、その手はドアノブを掴んだ。その部屋に入るとし、次の台詞を口にする。
「そうだ、お近づきの印にとっておきのショーをアナタと共に」
 がちゃりと、部屋の扉は開かれた。そうすれば司書は息を呑む他無い。さながら、彼女の眼差しの先に地の獄のさまは在ったのだから。司書の眼差しを一等に捕まえたのは、例えば床に倒れているその人彼女の一番の助手である――、今はもう生命活動を終えているであろうその人。言うなれば骸が転がっている。折り重なるは今生は幼い体の――、ぴくりともしない。震える睫毛と視線、それを大きく動かす必要も無い。右へ左へどちらにほんの僅かと動かそうと死に体が彼女の視界に入るのだから。死に体から溢れた鮮やかな臓器や、カーペットを汚している血などは赤黒く。
「ショーの時間ですよ」
 彼女の片耳を逆撫でするような声色で乱歩は言う。
「人体切断のそれです、そんなに脅えないでください。脚を震わせないでください。ゆったりと楽に、どうか。すっぱりと、切り落としやすいように」
 ひゅッと呑んだ彼女の吐息は、疾うに過去になってしまう。国から任命された特務司書とはいえ、特別な血肉を得て今生に転生した乱歩に抗うことなど。それに彼は言っていたことだ、品質が下がっていると。
「己が掬い上げた魂かも分からないなんて、本当に嘆かわしい」
 乱歩はただただ彼女、いいや人間の右脚を手の平に首を振っただけ。

 これは、とある事件についての政府による調べ。多くを省くが大凡書かれているのはこんなこと、惨たらしい事件であると。ある図書館の特務司書が何者かによって殺された、惨殺事件。首に、右腕、左腕、右脚に左脚は切り離され床へと転がるだけ。足りない、足りないものは胴体。その場に彼女の胴体は残されていなかった。胴体は、何処を探しても見つかりはしなかった。そんな、事件。
 もしかしたら誰かの思考に引っかかるかもしれない、そんな事件。

 司書は右へ左へと視線を顔先と共に向けながら早足で街中を歩む。彼女の眼差しは探していた、どうやら彼女は付き添いの者とはぐれたようだ。いつも賑やかではあるが今日は何か催しでもあるのだろうか一段と人が多い。彼女とはぐれた男はもしかしたらそれの為に彼女を誘ったのかもしれない、けれども今はこの場にいない彼のことは分からない。
「っ!」
 ぐいっと、司書の手を引き止める者があった。それに振り返った彼女はほっと息を吐く、視線の先にははぐれた相手がいたからだ。乱歩の姿が在ったからだ。
「よかった乱歩さん……、乱歩さん?」
 けれど少し遅れて彼女は気付いた。どうやら彼は違う、自身が転生させた乱歩ではないと。その声音を受けて彼女の連れではない乱歩は唇を開く、言葉を聞かせた。
「随分と慌てているご様子だ、ワタクシが力になれることはございますか?」
 人当たりのよい笑みだ、彼女もよく知る笑み。厳密に言うと彼は違う者ではあるのだが。まったく知らぬ乱歩であろうと、まったく知らぬとも言えぬような感覚で彼女はその申し出をすっかりと断ってしまうことができぬでいる。困った眉、どうしようかとした唇は心許ない響きで。
「連れとはぐれてしまって……」
「なるほど、それは大変だ。ワタクシも共に探しましょう」
「そんな、悪いです……」
「いいえいいえ、最近は物騒ですからねぇ。こんなにも可愛らしいお嬢さんをお一人で歩かせるなど」
 会話の途中で司書が歩む者と打つかりそうになるのを乱歩は彼女の手を引くことで避けさせる。すみません、いいえ、と言葉を交わし気付けば彼女は彼の申し出を受けていた。それで彼女の視線はそっと落とされる。自身の手と乱歩の手、絡められた指先。
「人が多いですからね。さて、探しましょう。アナタの先の様子を見た限り、ワタクシをお探しだ。同じようで違う、乱歩という男をお探しだ」
 乱歩に探し人を当てられた司書は仄かに目を見開くようにして驚く、そんな彼女を促すようにして彼は歩み出す。探すのは乱歩、また乱歩。
 見つからないものだ、どうにも探し人である乱歩の姿が何処にもない。暫く歩んだ所為か司書はその胸の鼓動を速めていた。いいや、彼女の脈打ちが速まっているのはそれだけではない。繋がれた手、それもある。言うなら、彼女は江戸川乱歩という男に恋をしていた。勿論、今その手を繋いでいる彼にではないのだがそれでも多少なりと思うものがあったのだろう。彼女のその胸はとくんとくん、と。
 もしかしたら二人で入っていたかもしれないカフェ、待ち合わせ場所に良さそうな噴水前、人通りが少ない路地裏。何処を探してみても彼女の探し人は見つからない。いつしか空は黄昏の色に染まり始めているというのに。辺りには人っ子一人いないものとなっていたのに。彼女は、息を吐く。
「一度、帰ってみます。私が帰ったかもと戻っているのかもしれません……」
「なるほど、そういう場合もありますねぇ」
 少し名残惜しいと思ってしまう。乙女の心とは複雑だ、けれど彼女は乱歩と自身の指先の絡みを解くしかなく。
「乱歩さん……?」
 だが、司書と違って乱歩はその絡みを解こうとせずむしろ力を強めているような。
「離れてしまうのが名残惜しいのですよ、ワタクシは」
 乱歩の指の腹はすべりと彼女の手の肌を撫ぜた。それはまるで恋人にするような熱を以て。黄昏色に混じ入る朱色、彼女の頬に浮かぶ色。黄昏色ばかりの乱歩の頬、彼は自身の頬に彼女の手の甲を当てる。その唇で紡ぐ。
「帰してしまうわけには」
 遠くで数羽の鳥が甲高く鳴いていた、それはどうやら烏だ。烏が、とある骸を突き漁っている声だ。司書はそんなことも露知らず、ぼぅと乱歩を見ていた。乱歩が見ていたのは、彼女の左手だけであった。

 知れぬ場所、ステンド硝子越しにきらきらと差し入る陽光は部屋の片隅にある嫌な薄影など素知らぬ顔だ。光に浮かび上がる男、それは乱歩で彼は彼女の顔をよぉく見えるように自身へと近付けてその吐息さえも触れさせる。睫毛に仄かに乗った埃にこれは失礼しましたと指先払い、その指の腹を儘に頬へと滑らせた。白い、生っ白い頬。おや此方も、と乱歩が孔雀青の眼差しを向けた首元では彼女のリボンが僅かに解けかけている。それを彼は踊るような指先を以て結び直す、紅い紅いリボンの布地のその下には白い糸がほんのほんの僅か覗いていた。
 それは戯れの時間だ、恋人の睦びの時だ。けれど、けれどこの場に誰ぞがいてじっと眼差しに見ていたなら異様さに遅れて気付くことだろう。乱歩が支える彼女、そのふんわりとした装いがやけに空気を孕んでいると。覗いているはずの四肢が、二つだけしかないと。乱歩の指先、それと絡んだ彼女の左手の指。彼が支える彼女の腰、すらりと伸びた脚は右だけ。
 そうして、何一つ言葉を零さぬ彼女の唇にまるで初々しく口付けた乱歩はよりステンド硝子越しの光が降り注ぐ椅子、それに彼女を座らせた。その前にて跪く乱歩、彼女の左手の甲に唇を寄せるその仕草は尊いもののようでけれどもその誓いは酷く歪だ。
「次は左脚をお持ちしますね、アナタが歩けるように。ワタクシと共に歩めるように……」
 孔雀青に光と愛しい人の姿は泳ぐ。きらきら、ゆらゆら。

 気付けば、司書は椅子に腰掛け寝入っていたようだ。彼女は開けた瞼に眼差しぼんやりと目前を見る。眼差しも思考も霞がかっているような。其処は舞踏場であった。臙脂の広い広いカーペット、それに施された金糸の刺繍は細かで上等。それを見下げるシャンデリアの煌めき、仰げばシャンデリアは彼女自身の頭上にもある。視界いっぱいにあるそれが落ちてきそうだとぼんやりと彼女は思った、けれども椅子から腰を上げるのは億劫だ。
 身じろげば手の平の下には滑らかな触りが。立派なビロード張りの四脚椅子、腰掛けたままに彼女は瞬きを繰り返す。少しずつ霞は薄れている、けれどもどこかふらふらとした感覚は拭えない。一度の瞬き、舞踏場にいるのは自身だけではないと見る。二度目の瞬き、多くの人間が踊っていると見る。三度、いいや誰も踊っていない、ポーズばかりで音に合わせて体をゆるゆると揺れ動かしている者がいない。四度、ぁあ舞踏者は誰もマネキンだ。生きた人ではない。
 夢なのだな、と彼女は億劫に瞬きをした。
 かつり、かつりと鳴る靴の音。無数の命無いものの中に響くその音。白いシルクハットや青と黒のハーリキンチェックのマント、それらを身に着けていないものの彼が乱歩だということが彼女には分かった。そうしてやはり夢だということも。彼女が身を置く図書館に、江戸川乱歩はいないのだから。シャンデリアが煌めくようにモノクルのレンズも光に煌めいた、それで彼の目が寸時窺えなくなる。それは一瞬、司書がじっと見つめたそこには孔雀青の色の眼が確かに在る。視線を下げれば弧を描く唇もちゃんと在る。
「踊っていただけますか、お嬢さん?」
 差し出された手に彼女は自身の手を差し出した。
「ダンスなんて踊れないわ」
 そうは言ったものの、夢の中なら或いはと。
 彼と彼女の手は重なった、乱歩は司書の手を此方へ肩先に誘導しもう片手も取る。後のそれは確かに音に身を任せるもので。何処からか紡がれるピアノを奏でに合わせてマネキンの舞踏者の合間を抜けて、司書には今が昼であるのか夜であるのかよりと分からなくなる。夢だと思ってはいたけれど。
「昼は夢、夜ぞ現……」
「おや、それはワタクシの」
「私、貴方がくるのをずっと待っているのよ。ずっと、ずっと。夢だけに出てくるなんてずるいわ」
「それは失礼しました」
 くるりと回り、乱歩に腰を支えられたままに司書は背を仰け反らせる。仰いだシャンデリアが眩いばかりだ。ほぅと感嘆とし、彼の力強い手の平にその胸元へと寄せられる。彼女は頬に乱歩の心音を聞いた。
「踊れないと仰っていましたが、お上手ですよ」
 アナタの脚はちゃんと音の奏でを捉えています、そうと紡いだ乱歩は小さく笑みの声音を聞かせる。なんとも幸せな夢だと司書はピアノの旋律、乱歩の心音を聴いていた。音がだんだんと遠くなり、意識も遠くなりその後に終わりがあるだなんてこれっぽちも思っていない。乱歩は、夢の中になど生きたくないのだ。

 あとは、右腕。乱歩の静かな声がその空間に響いた。
 四脚椅子に腰掛けた乱歩は自身の膝の上に彼女を座らせて瞼を閉じる、彼女の声音を思い出しながら脳裏に幾数の記憶、画を思い浮かべている。それはただに幸福の記憶、かつての彼と彼女の。彼女の首元のリボンを指先に遊びながらあの日の記憶を唇に恋人に囁きかける、身を寄せた彼女へ自身の体温を分け与える。
「右腕をお持ちします、そうすればアナタは――」
 頬と頬を寄せて夢見心地に言の葉を紡いでいた乱歩は、ハッとしたように目を見開いた。彼は気配を感じた、彼女と二人きりであるはずの世界への来訪者のそれ。眼球は一度右へ左へ動くさまを見せ、瞼に眼差し遮らせれば窺えるのは蒼さを深めたものだ。愛しいばかりの彼女を椅子に座らせて口付けを、後背では重く扉の開く音が。
「随分と久しい、久しいものです。アナタであると分かっていました、佐藤さん」
「……江戸川」
「おや、もう江戸川くんとは呼んでくれないのですね」
 乱歩と春夫の視線は一致した、険しいばかりの表情を浮かべる春夫とは裏腹に乱歩は頬に笑みのそれを浮かべている。けれどもそれが真実であるかなど。春夫の視線は乱歩から外れその後方を伺う、椅子に座った彼女を見るのだ。険しいさまはよりと深まる、歯噛みの音さえ聞こえてきそうで。
「分かりますか佐藤さん、もう直ぐなのです。あとは右腕を彼女へとお持ちするだけ……」
「っ彼女は死んでいる、もう死んだんだぞ!」
 春夫の声が酷く空間へと響いた。乱歩は彼の言葉がまるで理解できないとばかりにこてんと首を傾げ、両の手を広げたそれでマントがはためく音をさせた。
「首以外彼女じゃない、そうだろう? いくら肉体を繋ぎ合わせても生き返るわけが」
「いいえ彼女は死んでいません」
 言葉は紡ぎ終えられる前に重ねられた、春夫は乱歩の眼を真っ直ぐに見たままに拳を握り込む。ぎちっ、と音が響いた。
 春夫の唇は過去の事実を紡ぐ、それは確かにあったことだと。乱歩に彼女の死を知らしめるように。
 有碍書、侵蝕者の謎は今なお深い。書の中に巣くう侵蝕者、有碍書の中で生きる侵蝕者。過去に例外は無かった、その過去は乱歩と彼女の悲劇その日以前の話。例外は彼と彼女の前にこれ忽然と姿を現してしまった。有碍書から、侵蝕者が溢れ出すなど。
 とある司書から右脚を頂戴するに惨劇の場を作った乱歩、彼にとってその場など地獄でもなんでもなかった。春夫と共に潜書から帰った彼が立ち尽くしたその場こそが地の獄であった。廊下には残っていた者たちの骸や肉塊が転がり散らばり、壁には噴き出した血糊がべったりと。過呼吸を起こしそうになりながら痛む胸元を布地指先に握り込み駆ける、嫌な予感ばかりだ。彼女の居場所は分かっていた、感じることができるから。けれども感じるそれは。
 図書館内もまた酷い有様であった。破かれた本や紙が床に散らばり、細切れの今は酸素に触れ赤黒く変色してしまった肉の細かな塊があちらこちらに。その合間には切り裂かれた臓物、真っ黒な洋墨を被りてらてらと光る腕先その手は剣を握っている。その先に胴体は無いのだけど。血肉ばかりで命の気配はひとっつもありはしなかった。乱歩に遅れてその場に佇んだ春夫は思わず己の口元を覆いそうになった、けれどその手は強く握り込んだ。
 震えるような視線、春夫の視線は汚れた床に座り込む背中を見つけた。生存者ではない、乱歩だ。酷く心許ない背中だ。彼の腕が誰かを抱くようにしているのに、春夫は言葉を紡ぐことができない。それが誰かなど分かりきっている。彼と彼女の関係は周知の事実であった。言葉をかけることなどできない、けれど春夫は一歩一歩と歩む。そうしてほんの数歩後ろまで歩んだ春夫は今度こそ自身の口元を覆った。
 彼女は、首から下が無かった。いいや彼女が首だけであった。
「なぁ、彼女は死んだんだ。あんたが認めたくないのも分かる、けど彼女は死んだッ!」
 その後、彼女の首と共に乱歩は姿を消した。そうして連なる残虐なる事件。春夫はそれらが乱歩によるものだと察し彼を捜していた、そうして見つけた。まさか新たに書き上げた本、それの中で生きているなど。
「いいえ彼女は死んでなどいない。死んでなど。思うままに動くことのできる体がないだけ。ワタクシ達とて一度死んだ身、ともあるのに今生を歩んでいる。肉の器さえ用意すれば、魂さえ消えていなければワタクシ達は死することがない。なれば、なれば! 彼女もまた歩む脚を再びとし、ワタクシに縋りつく腕を再びとすれば! もう一度、もう一度……!」
 春夫は、首を振る。彼の片手に構えられたその著作が光りの粒子を纏いやがてそれは刃となった。乱歩は後ろの彼女を庇うように両の手を広げ、片手の彼の著作もまた得物と成り代わる。空を切り、鞭は床に鋭い音を聞かせた。どちらも譲ることなどできないのだ。
 地を蹴ったのは春夫だ、得物の特性上距離を詰める必要があるのは彼で距離を詰められるを好しとしないのは乱歩。しなった鞭が軌道を読ませぬとし春夫を鞭先貫こうとする。かつては乱歩と共に侵蝕者に立ち向かった春夫だ、彼のその鞭の殺傷力を知っていた。受ければ肉に抉り込むそれを刃に払い、それでも何度と向かってくると同じく何度と払う。
 距離を、詰めていく。
 乱歩の振るった鞭は壁備えの本棚を掠め書籍を辺りへと散乱させる。その幾つかは春夫にも降り注いだ。目隠しに潜り込む鞭は春夫の肉へも潜り込もうとする。僅かに彼の脇腹を掠めた、瞬間の熱と遅れて血が滲む。けれどそちらを気にしている暇など。
 許せる距離は詰められた。後ろに彼女がいるとなれば、未だとある距離を乱歩自身から詰めるしかなく。
 ステンド硝子越しの光が眩い、二人がその眼を細めることはないが。互いの得物が殺意の煌めきをみせた。振るわれた春夫の刃は乱歩の腕を掠める、血が床へ飛び散った。もう一度と、刃は乱歩の頭上から彼を狙う。しならせるに必要な距離が無いならばと両の手に束ね掴まれた鞭はその身で刃を受け止めた、ぎちぎちとした音を響かせ。儘に受け流し、左脚を軸とした回し蹴りが春夫の首元に。その腕に首は守られたが、骨が軋み砕ける音が違いの合間に鳴った。ホムンクルスの体なれば蹴り一つも凶器のそれだ。
「っぐ!」
 駄目になった腕とは反対、その春夫の手が乱歩の足首を掴んだ。骨の軋む音、目的は握り潰すことではない。力のまま、乱歩は床へと叩きつけられる。衝撃は背中から臓器へ、口を喘がせ、それでも身を瞬時に避けさせねば。乱歩が在った位置に春夫は得物を沈ませたのだから。
 肉が、分断される感覚。避けきることは。いいや、分断はされていなかった。けれど繋がっているのは心許ないばかりで、ぶらりぶらりと揺れる腕。
「利き腕をもっていくとは、アナタも意地が悪いお人だ」
 言葉、転がった先で春夫を見据えた乱歩。孔雀青の眼差しばかりでない、春夫に向いていたのは。乱歩の左手が構えているそれの名はデリンジャー、小型の拳銃。得物が一つであるとも限らない。耳を劈くような音、銃弾が春夫の胸元へと滑り込んだのに乱歩は勢い立ち上がりステップを踏むように距離を取った。乱歩の唇は笑みを浮かべていた。
 とっておきは最後に魅せるもの、そう紡ぐとした唇はその音を紡ぐこと適わない。熱は彼の胸元を穿った、眼差しの先に在るのは弓を射った姿の春夫。得物が、一つであるとも限らない。彼は詩人でもあった。握の辺りにある歯車の装飾に、銃弾は挟まっていた。
「江戸川、これで……」
 言葉を紡ぐとした春夫の目前に青と黒が踊った。それは乱歩のマントだ。目隠しのそれに春夫は身構え、けれども一撃がくることは。
 床へと乱歩のマントが落ち広がった時、その場にいるのは春夫だけであった。乱歩はおらず、彼女の死に体もまた。
「江戸川……」
 床に散らばった本の数々、それだけが春夫と共にあった。

 蛇のようにうねる文字が空に在る本の世界、乱歩は片足を引き摺るようにして歩む。繋がっている片腕とぶらりぶらりと揺れる右腕で愛しい彼女を抱きかかえながら。
 ダミーとなる本は幾数もあの場に用意していた、直ぐに追いつかれることもない。けれども逃げ切ることはできないだろう。安住の地は無い、そうして深手の具合に歩み続けることさえ。
「あとは右腕だけであったのに……」
 もう少し、少しであったのにと乱歩は彼女を庇いながらもその地に崩れ落ちる。ぽったりと、ぼたぼたと砂利に血を零しながら。
「右腕さえ、右腕さえあれば」
 千切れかけの腕が揺れる、彼女の体に縋る乱歩の腕が。
「ぁ、ぁあ、腕、腕、そうですワタクシの腕を差し上げましょう……! アナタは気に入らないかもしれませんが、我慢してくださいね。今、今縫いつけてさしあげますからね……!」
 ぶらりぶらりと揺れていた右腕は彼自身の手によってぶちりと。持ち歩いていた糸と針で、ちくちくと。
「これで、これでアナタの体は揃いました……! どうか、どうか目を覚ましてください……!」
 お世辞にもちゃんとした縫い口だとはいえない、頼りなく縫い合わされたそれに腕は肉を見せながらぶらりぶらりと揺れている。縋りつく乱歩に、腕が揺れるだけ。彼女が目を覚ますことなど。
「何故、何故なのです……ワタクシはアナタに再び笑いかけてほしかっただけなのです。ワタクシを、見てほしかっただけ……」
 乱歩が彼女の目元を指の腹、仄かに押し開ければ何処をと見ていない眼差しが在った。濁った眼球が在った。死に体の、それだ。
 血を失い過ぎた、ふらりふらりと。揺れた乱歩の体に彼女の体、或いは別の彼女たちの体、それも揺れる。髪に顔半分を隠し窺える片目を白濁とさせたそれ。
 虚ろになりかけた乱歩の眼差しの先、ほんの僅かに彼女の睫毛が震えた。それに気付いた乱歩は薄れかける意識を懸命に手繰り寄せ、食い入るようにして見る。その眼差しが自身を見つめることを求めている。ふるる、と。白く濁り始めていたその眼は震えた。己の眼孔を覗こうとしていたばかりのその眼は、確かに乱歩の方へと向いていた。
「嗚呼、漸く、漸くワタクシを見てくれた……もう、これ以上はありません……望みません……」
 彼女を抱きかかえたままに乱歩は静かに眠りに落ちる、その先に何が待っているかを綴るは無粋だ。

 そうして、彼が瞼を閉ざして時は進む。

 濁った彼女の眼球はふるると震え、その目玉を押し退けるかのように裏っ側から一匹の蠅がぶぶぶと空へと飛んだ。世界には不条理ばかりしかない、けれどもそれを知らぬなら終わりはしあわせであった。それだけの、話だ。
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