ふと気付くと、乱歩は長い長い廊下にひとりたたずんでいました。ぴかぴかとした丸電球からの光、それで照らされた廊下はずっとずっと遠くまで続いています。それでもまっすぐです。けれど、辿り着く先は見えるはずなのに彼がいくら目を細めてみても見えてきません、ずっとずっと遠くにあります。あるはずです、けれども見えないのです。
 きょろきょろと、乱歩のめは右を見ては左を見てみます。廊下の右側には窓があって、廊下の左側にもまた窓がありました。両脇に窓があるのです。とんとんと音を立てて乱歩は歩きます、左側の窓をのぞき込んでみました。外をのぞき上げてみました。
 見開かれた乱歩のめ、それに映り込みました。それは暗闇の中に浮かんだ黒猫のめだ、おおきくまんまるなお月さまだ。けれどあんなに月はおおきくこんばんはと夜の挨拶をしているのに、夜の景色はひとっつも見えてこないのです。それで、草の葉がつけているばかりの夜つゆの玉がきらきらと見えるだけ。ほんとうは草も草だと見えないはずです、けれど乱歩にはそれが確かに夜つゆ浮いた葉だとわかりました。ああ、それはいちいの葉。いちいの葉であると乱歩にはわかりました。いちいの葉に浮いたきらきらとまばゆいそれは、見ている乱歩のめの中にも泳いでいます。またたきをする度ゆらゆらと、たゆたうのです。
 乱歩がふいに振り返った廊下はいつしかまっくらでした。窓のそとにはお月さまがいるのですが、乱歩の行き先を照らしだしてはくれません。これでは行き先が分からないと彼はらしくなくも足先を向けるに困りました。けれどもぱち、ぱちりと弾けてきえる光があるのです。それが彼のまなざしの先にありました。
「マグネシヤの、花火」
 くちびるがおもわずと零した音に乱歩はおやと首を傾げます。彼はその音を知っていました、けれども今は忘れていました。忘れてはいましたが、乱歩はマグネシヤの花火を辿りに廊下を歩みます。ぱち、ぱちりと弾ける火を頼ってずっとずっと歩みます。
 水のように通りや店の中を流れる空気の澄み切った音、それが乱歩には聞こえました。気付けば彼の歩んだあとにはそよそよとりんどうの花が揺れています。上手に聞き取れない声、ふしぎな声もまた乱歩のこまくを揺らしていました。銀河――、銀河――、上手くは聞き取れません。
「何と言っているのでしょう……」
 乱歩は上手に聞き取ろうと足を止めてふしぎな声に耳をすませます。そうすれば聞こえてくる音は、水のせせらぎでした。音を辿るためにめを閉じていた乱歩はめを開けました、彼の足元に水は流れていました。乱歩の足首の、水にひたったとこが仄かに水銀いろに浮いたように見えます。彼の足首にぶつかってできた波は、ただうつくしい燐光をあげてちらりちらりと燃えるように見えます。
 おもむろにしゃがんで乱歩は河底の砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしとさせてみます。
「なるほど、この砂は全てが水晶です。おや、……中で小さな火が燃えている」
 ちらちらと燃える火、それが乱歩のめに浮かびます。どこかどきりどきりと音がうるさい胸をおさえるようにして乱歩はその火を見ていました。まるで凸レンズのようにその火を見ていました。
 ふらりふらり、乱歩は少し気分が悪くなりました。気付けば河原は何処にもありません。ただ窓枠に体を預けていました、窓の向こうに見えるのは十字架、白い。それはもう、凍りついた北のお国の雲で鋳たといいあらわしたらいいか、円なる光を頂いて、ただただ静かに永く永くにたっている十字架でした。
「ハレ、ルヤ……」
 右や左に揺られながら乱歩は言いました、なんだか言わなければいけないような気がしたのです。彼のめの端っこに浮かぶ窓の外は桔梗いろの空でした。鳴き声を上げる鷺がめいっぱいに落ちる空。天の川さえあります、天の川はぎらりと光って、それはまるで高い高い柱。どおと激しいばかりの音が乱歩には聞こえました。けれど、けれど、乱歩はふらふらとしています。
 一度、二度、首を振った乱歩のまなざしの先に人が見えました。それは賢治くんでした。
「おや、賢治君……」
 賢治くんはにっこりとした笑顔をうかべ、乱歩を見ます。彼の差し出した両の手の平の上にはひとつの果実がありました。紅くて、つやつやとして、よい香りがするものです。
「乱歩さん、具合が悪いの? この苹果はね、特別瑞々しくて甘いからきっと食べられるよ」
「り、んご……」
 乱歩は賢治くんが差し出した苹果を受け取ります、その果物はまるで羽根のようで重みがないものでした。まじまじと果物を見る乱歩のめ、映る苹果はどんどんとおおきくなります。彼の歯がしゃくりと苹果を齧ります。あたりには、その瑞々しくも甘いさわやかな薫りが広がりました。気分のよくなかった乱歩の頬にも笑みが浮かびます。
 ほほえんで、めをつむった乱歩です。そのまたたきの後、立っていたはずの乱歩はすわっていました。青い天蚕絨を張った腰掛、その手触りが彼の手の平の下にありました。すべすべと心地よいものです。
「此処はいったい……」
 ぱちぱちとした乱歩のまつげに小さな星が飛ぶようです。星は銀河を流れるように線を描いて、それでぱっと消えてはまるで砂糖菓子のようです。ほろほろと崩れてしまいました。崩れて、乱歩のめもとでさらさらとするのです。そうして幾つかの流れ星、気付けば向かいにもまたひとつの腰掛がありました。そちらに座った青年は乱歩を見ながら口を開きました。
「嗚呼そうです、ただ一番の幸いに至るために色々の悲しみもみんな思し召しです」
 その声音をきいていた乱歩はハッとしました、そのくちびるの持ち主はまるで鏡合わせに自身と同じ顔をしている。いいや、彼は自身だ。江戸川乱歩だと思ったのです。いいえ、きっと青年は乱歩でした。
「色々の、悲しみ……」
「人生などごめんだ、もう二度と」
「一番の幸い……」
「ただ一番の幸いに至るための」
 ゆらゆら、ふらふらと乱歩は揺られます。まるで、まるでそれは列車の旅でした。ゆらゆらと、がたごとと。乱歩のめの中にはいつか見た水晶の火が燃えています。ちらちらと。ぱちぱちと。それが近くなり、遠くなり、近くなり、遠くなり。
「――さん……、らんぽ、さん……」
 ぱちぱち、火の燃える音。
「――さん……、らんぽ、さん……」
 さわさわ、水のせせらぎ。
「――さん……、らんぽ、さん……」
 まるで、その声音が舟のたゆたうもののような。舟はまるで、銀河を渡るような。近く、近く、遠く、遠く、遠く、近く、遠く、近く。

「乱歩さん」
 その声音は乱歩の鼓膜を確かに震えさせた、だから彼は転寝のようなそれから意識を掬い挙げられたのだ。乱歩の爪先が跳ねた、深くに腰掛けていた尻さえ飛び上がりそうであった。彼の孔雀青した眼差しがぱちりぱちりと睫毛に遮られる。それは瞬き、乱歩は数秒に思考を巡らせた。
 乱歩は、彼の眼差しの先にあった彼女を右手に手繰り寄せ腕の中に収めた。ほぅと息つく、感じた体温が行き着くそれだとばかりに。
「嗚呼……ワタクシの幸いは疾うに在りました、この腕の中に在りました……」
 すべりと乱歩の手から落ちた本が床へとばさりとした音を聞かせる、ふわりと舞い上がった空気は彼が零した吐息混じり。ふんわりと酒の香りを孕むもの。銀河の夢が、ただ真夜中に浮かんでいたことでありました。がたごとと、列車の音を聞かせていたことでありました。


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