急いて走ればまた時間の概念も着いてくる。
 壁外調査からの帰還後、指示されるままの非武装待機。巨人の襲来。事実上のウォールマリアの決壊。見つからない破壊されたはずの壁の穴。宵の闇、篭城。
 ――事が足早に駆けている。

 休めという指示の暫く後、閉ざした瞼の後にも睡魔がやってくるわけもなく、寧ろ群の中を少し外れた方がと私は蝋燭の明かりを供に静かにその場を離れた。抑えても僅かに響く自身の足音に、聞こえてはこない足音。やはり、此処を離れた先の方が身体を休められそうだ。

 瞼を閉ざして座り込んでいる皆から離れた所で、私は横に引き結んでいた唇を少し緩めて溜息とはまた違った息を軽く吹いた。窓硝子の無いそこから見える外の景色は灯りとなる月明かりもないために何も見えない。
 窓枠と言っていいものか、外と内との境界となるそこに蝋燭立てを預け外を見つめていると微笑むような声色でマルコが私の背中へ言う。彼の声は私の他には聞こえないというのに眠っている皆の中では唇を開かなかった。
「ナマエ、眠れないのかい?」
「眠れない。誰かさんは相変わらず人の寝顔を観察するし」
 見えない月を覗き見るように見上げているとマルコも静かに隣に立ち私と同じ様に月を見上げた。
 蝋燭の揺れる灯りに浮かび上がる雀斑にちらりと横目をやる。同じようにこちらへと向けられていた視線とぶつかり、また同じように見えぬ月を見る。
「いつかの日もナマエは見ていたよね、見えない月を」
「いつかの日?」
「うん、夕食後の自由時間にこうやって窓硝子に手の平くっ付けて、見上げてたのを覚えてる。少し唇に隙間を開けて、ずっと見上げてた」
「……何か考え事してたんでしょ」
「うん、してた。その時僕はナマエに声をかけたんだけど、こっちを向いたナマエは僕を見たけど見てなかったからね」
「……ふーん」
「ナマエ」
「……何、マルコ」
「いや、……今は僕を見てくれてるなって」
 見えぬ月を見上げるのを止め、俯くようにして視線を下げた私はちらちら揺れる蝋燭の影に意識を向けるように努めた。月明かりの無い夜の静けさに耳がなんだかくすぐったいような気もする。
 月は雲に隠れていつまでも姿を現さない。星一つない宵の空の深さを見上げては、いつの間にかできていた上唇と下唇との間の隙間を慌てて引き結んだ唇に隠した。瞬きの後に忍んだ星を捜そうとしてはぼんやりと唇に隙間を作っている。
「好きだ」
 ぽつりと呟くようなそれは宵の静けさの前には容易く私の鼓膜に入り込み、しかしその言葉の意味を易く理解することはできなかった。
 思わずマルコの方へと向けた顔。揺れる蝋燭の灯りと影。見開いてしまった目、繰り返す瞬きで落ち着きを取り戻そうとするも追い討つようにマルコはぽつりぽつりと言う。
「前から好きだったんだ。ナマエを。ずっと、ずっと前、死ぬよりも前から」
 蝋燭の灯りに影と城の闇。ゆらゆらと揺れる陽炎のようなそれのどこかに視線を泳がせるようにして考えても、私の唇が紡ぐ言葉はそう差異は無かった。
「……何で、今、そんなこと言うの」
「ナマエがより儚く見えたから、……かな?……ごめん、変なこと言い出して。でも、……確かに好きなんだナマエのこと」
 視線を逸らすなんてことはせず、ずっと私に目を合わせたままに言うマルコ。灯りの無い所へ後退り姿を隠してしまいたいような心持ちだとか、頼り無い蝋燭の炎に照らされて熱を持った頬だとか、瞬きに抑え込む事ができないそれはもう一度私に言葉を紡がせる。
「何で、今……」
「……ごめん。気持ち悪いだろ、死んだ後も残っちゃうような執着心みせて」
 少しだけ外した視線と雀斑を掻いた指先。
 マルコは私の言葉を勘違いして捉えているようだった。顔色を窺うには蝋燭の明かりではきっと心許無いし、唇はマルコの告白を聞き始めたその時から小刻みに震えているから、だろうか。
 困ったような笑みを浮かべて、されどマルコは視線を私へと戻しては言う。
「僕にできることはきっと、謝ることだけだ。もう顔も見たくないって言われてもあまり離れられないからさ、……ごめん」
「……違う」
 一度結んだ唇を開いて、今度は私が言う。
「私もマルコのこと好きだよ。……好き、だよ」
 外した視線で浅い深呼吸をした。戻した視線の先に顔を強張らせたマルコがいた。
「……確かに、好きになったのは、意識し始めたのは、……マルコが死んで私の前に現れてからだけど、でも、今、マルコのことが好き。好き、だから、……余計にどうすればいいか分からない。……だって、……なんで、今、なの」
「ナマエ」
 感情に揺れるマルコの声色が私の名前を呼んだ。閉じ込めるような瞬きの前に私の目からは涙が零れそうだなんてどこか思って、震えてしまう声で私は続けた。
「今じゃ……マルコに触れることすら、できない」
 少し踏み出して伸ばした指先、彼の衣服にさえ触れることなく擦り抜けてしまう。ぎゅっと握りこんだ指先がじんと冷たいような気がして、無性に泣きたくなった。
「ナマエ」
 静かなマルコの声。彼は手の平を私に見せるようにした。
「ねえ、手を出して。こうやって」
 促すような微笑みに、私はマルコの言葉通りに重ねるようにして自身の手を差し出した。少しだけ溶け合ってしまうように重なっては僅かに離れるそれは、まるで本当に触れ合っているようだ。不確かで確かなそれを小さく笑う彼と私の手の平に、見た。
「ナマエの手はちっちゃいね。指は細いし、女の子の手だ」
「……マルコの手は大きいね」
「ナマエの手に比べればそりゃあね。……それに、ナマエの手は温かいよ」
「温かい……」
「うん、温かい。……キスしていいかい?」
 手の平を重ねたようにそれは不確かで確かなもので、蝋燭の揺れめきも、宵の静けさも、曖昧に緩やかに溶けていく。

――事が足早に駆けている。
 巨人の襲撃、ユミルの事、生還、アニやライナー、ベルトルトの事。瞬きの間の事のように、足早に駆けて行く。

 それでも、触れ合ったその時間は確かにゆっくりと流れていた。

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