壁外調査が予定されている。それも、決行まで残り三週間を切っている。心中の私はこめかみに汗を一筋流したままに眉を顰めている。このふざけた世界、死ぬ気で生きてきた奴にさえ残酷だというのに、足掻くことも忘れてただぼんやり生きてきた奴がどう生きていけるというのか。

 今更もがいても、私の目の前にあるのは暗闇だ。少しばかり前方へと伸ばした右腕の先、指先さえ、闇に埋もれ見えないじゃないか。
 踏み出した足の裏からは音がしない。若しくは、此処には音が存在しない。そして私の眼球は何も映さない。それでも、歩みを止めない自分を何となく笑った。下ろしたままだった左腕の先、指先はどうやら立体機動装置に触れている。
 不意に、伸ばしたままだった右腕の先、指先に触れた温もりが在った。砂利の、音がした。引き攣く私の喉。唇が音を零す前に、世界は、光の前に薄暗くなりそして明瞭さを急激に取り戻していった。

 閉じた瞼の裏にも朝の日差しが眩しく、一度閉じ込むようにした瞼の後に開いた目で睡眠との区切りを付けた。寝起き特有のぼんやりとした視界と思考でも数秒の内に自分を見下げるそれに私は再度、或いは朝一番の初めとして眉を寄せ、そして虫でも払うように手を動かした。それに対して既に起きていたらしい同室の彼女が「何してんのー?」だなんて朝っぱらだというのに快晴の空のような元気な声を上げた。
「……蝿がいた」
 優等生という被り物をした蝿が。興味が有ったのか無かったのか、「そうかー、ハエかー!」だなんて続けて笑った彼女が衣服に手を掛けたのを横目で見たのか、飛び上がるように慌てて目を瞑り廊下の方に掛けていったのはお察しの通りマルコで、どうやら観察されていたらしい自分の顔、額に手を付いて頭を振った。夢見が悪い。
「頭が痛いの? 大丈夫?」
「大丈夫。立体機動装置を使うのに支障無いよ」
「そーいうことじゃないような、そうなような? とにかく、具合悪いなら申し出た方がいいよ、多分。うん、危ないし」
「……壁外調査まで三週間を切ったね」
「あ、うん、そうだね?」
「休んでなんかいられないよ。多分、そっちの方が危ないし」
「うーん?」
「まぁ、私の話だから置いといて。顔洗いに行こう。……あと、寝癖ついてるよ、派手に」
 奇妙な悲鳴を上げた彼女より先に廊下へと出れば、通路の壁へと背を預けるようにしていたマルコがどこか待ち惚けをしているような顔で宙へと視線を漂わせていた。向けられた視線に向けた私の視線で打つかった目線。「は」「え」と音も無く形作った私の唇に変わった彼の表情は所謂ばつが悪いというやつなのだろう。

 速く速く、より速く遠くへ、宙を切り最善の道筋で駆逐を。噴かしたガスの音がより耳につく。
 上げた速度により風が敵になる。予想生存確率は上がらないというのに胸中の苛立ち不安はぐんぐんとその位を上げていく。このままじゃいけない、このままでは巨人の餌になるだけだ。いいや、巨人は人類を食物として食うわけではないから、所詮玩具になってしまうだけだ。
 太い枝の上へと着地した私の吐き出した息を追うように皮膚の上を流れた汗が余計に焦りを募らせた。
 壁外調査へ向けた長距離索敵陣形の講義、それに伴った訓練。その合間を縫うように今行われている立体起動そのものの訓練。一番に私に焦燥感を与えたのは勿論後者で、人類最強と名高いリヴァイ兵長の技術を脳裏に浮かべては汗をかいた手中に剣の柄を握り込んだ。
 後悔先に立たず。されど人はいつも後悔する。私は、流された私自身を悔いる。
「――オ、オイ!」
 直ぐ傍らで上がった声が鼓膜に流れ込んだ気もした。それでも、力を込めた脚に足裏は枝の表皮から離れている。向けた視線の先へアンカーを。噴かしたガスで前へ、もっと前へ。
 焦りは常に危険をもたらすものだ。
 見開いた私の目は確かに刺さったアンカーを見た。されど確かに見た、その潜り込みが浅いのを。遅らせて放ったもう片方のアンカーはその先の奥の木へと刺さる為に既に向かっている。
 噛み締めた奥歯のギリッという音を、目を見開いたままに自身の鼓膜で捉えた気もした。「ナマエ!」という荒らげた声で呼ばれる自身の名も。
 その瞬間を、人はスローモーションで観るらしい。
「ナマエッ!!」
 されど再度の声に私は全てを現実下の秒数で見た。
 落ちるアンカーの先を見届けているわけにはいかない、もう片方が目標へとしっかり深く刺さっているじゃないか。確かに、そこへ向かうには直線状にある木との衝突があるが。
 ガスを噴かし身体の重心を傾ける。数秒。息を呑んだままの数秒。
 掠ったのは、確かに調査兵団の団服だ。
 そして零れ落ちてしまったアンカーを巻き取ったワイヤーを瞬時に次の点へと放ち、飛び上がって着地した先を足裏に確実に感じて、酸素は飲み込めずに唾を飲み込んだ。心臓は細かな鼓動を繰り返しているし、どっと噴き出した汗で剣の柄を離したくなる。
 枝の上から振り返り見下ろした遠い地面はもしかしたら私の最期になったかもしれなかった地面だ。はっ、と吐いた二酸化炭素の後に漸く酸素を吸い込めた。
「ナマエ!」
 三度目となるその声。あまり離れられないと言っていたのは本当のようで、何も無い宙に現れるだなんてさすがに人外離れした出現を見せたマルコ。
「何、私はなんともなかったけど」
 そう言って、浮いてはいないんだな、とマルコの足元へと視線を向けていたら突き出すようにして勢いよく出された腕。それに驚いた私は少ない足場の上で後退りをしてしまう。
 マルコの手は私の肩に触れることなく透けて潜り込んでしまったようで、それに歯痒い表情を浮かべた彼がそれでもとばかりに向けた視線の真剣さにもう少し後退りしたくなった。
「危ないじゃないか! お前もし一つ誤っていたら大怪我か或いは命だって無かったかもしれないんだぞ! っそれに、なんともないって、そんな一言で済ませられないだろ? 確かに掠っていたじゃないか! 怪我は、本当にないんだな?」
 その勢いに私は再度目を見開くことになる。そしてぱちぱちと瞬きを繰り返した後に確かに怪我はしていないと小さく呟きながら首を振って見せた。マルコの長く、深い溜息。
「そう、それなら、いいんだ……。……いや、よくない。よくない! 焦るのも、焦るのも分かるんだ。それでも……もっと、自分を大事にしてくれよ……! 時間は幾らでも有る、だなんて言えない。……時間が有限であることは分かり切っているからね、僕も。……だからこそ焦っては駄目だ。ナマエは、自身で思っている以上に立体機動の才を持ってるよ。確かに、訓練兵時は熱心になっていたとは言い難い感じだったけどさ……。だけど、調査兵団に入ってからはそれこそ死ぬ気で取り組んでる。……だから!……だから、……生き急がないでくれ……」
 項垂れたマルコの強く引き結ばれた唇と眉根にできた溝に確かに私は声を失くしている。
 沈黙は数分だった気もするが数秒のあっという間だったという気もする。兎に角、私は彼から逸らした視線の先で茂った木々の青青しさを見ながら細めた目で言うしかないのだ。
「……説教、ありがとう」
 そうして、心臓のむず痒さを知らん振りしながら私はアンカーを指すべき対象へと視線を向けて、それを放した。飛び出した先の重力と巻き取りを開始したワイヤー、それにガスを噴かす音。空気抵抗の前になびいた前髪では真横に引き結んだままにできない唇を隠せない。

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