「――それで、どうやら私にしか見えてもいないし声も聞こえてないらしいマルコ・ボット、貴方は何なの。幽霊それとも気が狂った私の精神が作り出した虚像? 後者だったらそれこそ自分じゃ判別つかないだろうから無駄な質問になるだろうけど」
 辺りは時間帯に沿う様に薄暗いが今夜は月が出ているために外を出歩いても不便無い。夕食を終えての自由時間、宿舎を離れ、ぶらりと人気の無い場所まで出歩いてから口を開いた私は同じように着いて来ていた彼マルコへと振り向いて視線を向けた。その私の視線の先で彼の方は地面に向けていたらしい視線を上げて、唇を少し間抜けにぽかんと開けていた。
 ある程度待ってもその唇が音を発することがなかったので見たままに「間抜けな唇」と言えば、詰まるような音を発した後にやっと言葉を紡ぎ始めた。
「っだって、……今の今まで何を言っても無視を通してきたじゃないか、お前」
 事実、今朝方衝撃の対面を果たして一言向けて放った以後言葉を投げ掛けてもいない。相手からのそれはあったが、私が一言も返していなかったのでそれは会話と呼べるものではなかった。
 しかし、それもしょうがないのだ。特別な理由が無い限り、新兵が一人一人個室を使えるわけがない。例に漏れず、私も同性の同期と相部屋で、その彼女がいる前でどうやら私にしかその姿も見えていなければ声も聞こえていないらしい存在と会話などできるはずがない。先の襲撃があったのだ、精神がやられた者がいないとも言い切れない。気が狂った者と勘違いされる可能性もあれば事実自分がその可能性もある、と。
「壁や空気に話しかける新兵は浮くと思う。……それで、どうなの」
 口を紡ぎ不安に目を泳がせるその姿へ黙ったままに私は視線を置いた。
 今尚血が巡っているかどうか怪しいが、血色の悪くなったその唇が震えて横に結ばれているのをしばし見ていた。やがて上唇と下唇の間にできた隙間から零れるように出た小さな声がそれを告げる。
「僕は、……確かに死んだ」
 私は、彼の亡骸を見ていない。だがそれを見たらしいジャンの話は聞いた。故に、事実だ。喉に引き付くような声で迷い迷いに連なる音は推測の前者を述べる。
「訳が、分からない。死んだのは、……分かるんだ。だから多分、……僕の今の状態を言い表すなら幽霊、……なんだと思う」
 薄っすらと月光の透けるその身体を一瞥してから、本人がそういうのだから実際は後者だったとしても前者の幽霊であるとして事実を呑み込もう。そう小さく頷いてみせた後で溜息を吐いた。
「何で私だけに見えるのかな、霊感とか無いつもりだけど。もしかして恨まれるようなことしたことあった? 接点は無かったつもりだけど」
「っ恨んでなんか!……と、いうより接点は無かったって……僕達、同じ訓練兵団同期だよね」
「それだけ、だよね」
 面喰らったようなマルコの表情。音も無く形作った唇の「それだけ、……」から視線を外した私は隙間を開けた彼の唇とは対照的に引き結んだ唇でそう離れていない彼との距離を詰めた。
 私の靴の裏で音を立てる砂利にハッと意識を目の前へと戻したらしいマルコへとぐいっと詰め寄れば、その分だというように逸らされた彼の背に僅かに余裕を取り戻した二人の距離。それを埋めるように、マルコの胸元へと勢いよく突き出した私の手の平。反射的に後方へと後退り避けた彼のその足元から砂利の音はしなかった。
「……何でそう構えてるわけ」
「いや、……避けると思うよ、普通は。行き成り過ぎて」
「じゃあ次は避けないで」
 二度目のそれは前以ての忠告で避けられることがなかった。ただし、突き出した私の手の平が対象に触れることもなかった。感覚でいえば、雲を掴むようだというのだろうか。握って開いてを繰り返した手の内には何も残らない。
「幽霊に触れるのは初めて。これを触れたと認識していいのなら、の話だけど」
「……なんだか複雑だけど、ナマエの満足そうな顔を見られるのは貴重なことだろうね」
 自身の胸元に突き刺された私の腕を見下ろしながら雀斑を指先で掻く、その顔に浮かぶ苦笑。マルコは私より背が高い。その為に見上げることになる視線でそれを見てから、私は自身の腕を彼の身体から引き抜いた。少しだけ自身の腕を見てから、あぁそうだとばかりに思い出す。
「帰らないと。入浴の時間、無くなっちゃう」
 私の呟きにばつの悪い表情を浮かべて、言い辛そうにするマルコ。実は既に察しが付いているために前の言葉は僅かな嗜虐心を満たす為のものでもある。事実、入浴の時間が無くなってしまう場合はあるわけだから。
「その、……あまり離れられないんだ」
 意を決したように、されど申し訳なさそうに小さい声で。発せられたその声が言った内容は察した通りのもので、会話はしなかったけれどそんなことを日中呟いていた彼の声を聞き流していた記憶を曖昧に思い浮かべる。
「大変だね、優等生は」
 肩を叩いてやるにも彼の体は擦り抜けてしまう。

 何を特に考えるでもなく視線を湯気の立つ水面へと向けていたら前髪の毛先から滴った水滴が小さくぽちゃんと落ちた。その波紋が一つ二つと広がるのを見守っていたが、三つ目は見届ける前にやってきた波に飲み込まれて消える。伏し目になっていた視線を前方へと向ければ同室の彼女が「疲れたー」と、両腕を伸ばしながらざぶざぶと湯を掻き分けるようにして豪快に私の目の前へとやってきて、同じ様に豪快に座り込んだ。跳ねた湯の飛沫が私の顔にかかり反射的に目を瞑る。
「疲れてないねー、ナマエは」
 開けた視界では私の顔を覗き込むようにしている彼女の顔が大半を占めていて、湯中で僅かに後退しながら彼女の言葉を考えた。
「そうかな、でも多分、憑かれてるよ」
 全然そうは見えないと笑う彼女に言葉のニュアンスはどうも通じていない。説明する気もないし、話題の方向性は女子お得意の色恋沙汰へと進むようだった。
「夕飯後の自由時間、どこ行ってたの? えっ、まさかナマエって彼氏いた? いやいや、ナマエの外見的要素とかで言うといてもおかしくもなんともないけど、そういう浮いた話とか聞いたことないし!」
 私が唇を開く前に次から次へと提供される話題にはなかなかに着いて行き難い。
 少しだけ空いた間に「いない」という言葉と小さく振った頭にそれでも彼女はあれやこれやと推理の言葉を述べては妄想の世界を広げていく。またその話題に耳聡い女子達は私も私もと会話の人数は増えていく。私は、その場を静かに離れた。
 女子達の声を側に、脱衣所の外、廊下の扉の前で項垂れているであろうその姿を思い浮かべる。誰のといえば、マルコ・ボット、その人だ。あまり離れられないと言ったのは彼で、心中穏やかではなかっただろう。距離と入浴場の広さの関係が良好でよかったとはいえるが、その扉の前でスタンバイしているような状況も彼には許し難いらしい。優等生。心の中で呟いておく。

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