ハーベスト | ナノ



一月前の幸せな結婚式の写真を眺め、出て来るのはなんと溜息だった。
照れた顔のあの人は凄くカッコイイはずなのに、今はこの照れた顔を見ただけで無意識に口を尖らせてしまう。
他人から言わせてみれば、初々しい夫婦の可愛い悩みかもしれないけど、私にとってはちっとも可愛くなんかない。
乙女心を分かってくれない愛しの旦那様がもどかしくて仕方がないのだ。

ムスッと膨れて相変わらず写真の彼と睨めっこの私。勿論写真の旦那様は照れた顔から変わる訳もないし、私が望む言葉を言ってくれる訳でもない。
余計イライラは募るばかりで、眉間には皺が段々寄っていく。
そんな正に最悪なタイミングでだ。ドアが開く音が私の耳に届いたのだ。

「ただいま、クレアさん」

ニッと笑って帰宅した私の旦那様―グレイ。見るからに上機嫌な彼とは対称的に、私の不機嫌さはついに限界点を突破した。
今の私には絶対NGワードをこう易々と言ってしまうなんて!キッと睨みつければ、流石に私の機嫌に気付いたのか、グレイはキョトンとした顔で私の顔色を伺っていた。

「どうかしたの?クレアさ―」

「もーっ!!」

大股で彼に近寄り、ギュウッとグレイの頬を引っ張り上げる。目をパチパチさせながら、訳の分からないと言った瞳で見つめて来るグレイに余計地団駄を踏みたくなった。

「くへあひゃん?」

「その状態で尚も呼ぶか!?」

もう此処まで来たら何だか情けなくなってきた。肩を落としてスッと彼の頬を解放する。やっぱり彼にとってもどうでもいい事なんだろうか?私はこんなに悩んでるのに……

「名前……」

「……?」

「なんでいつまでも"さん"なの?」

ずっとずっと、たった二文字なんだけど、これが消えるのを待っていた。
出会った時から、付き合いだした時も、結婚したって変わらない私の呼び名。
なんだか壁があるようで、悲しくって、ずっと私は気にしてたって言うのに。

俯いた私に焦ってるのか、何度も伸ばそうとしては下りる手が視界に写る。その手が堪らなくもどかしくて、バッと顔を上げれば、しどろもどろなグレイとばっちり目が合った。
ぐいっと鍔を下げるのは、完全に焦ってる証拠だ。帽子に隠れた瞳は絶対泳いでるに違いない。私賭けてもいいわ!

「そ、の……、やっぱり、ずっとそう呼んできたから……今更かな、とか」

「今更なんかじゃないわ!名前が呼びにくいんだったら、夫婦らしく"おまえ"とかでも私かまわない!」

「そんな!クレアさんにおまえだなんて言えないよ」

あっ、と口を塞いだグレイ。けどもう遅い。私ちゃんと聞いたもの。
しまったと言わんばかりの顔で、あたふたするグレイに思わずため息がでる。

「じゃあ、」

おまえがダメならと思い付いた呼び方に、つい顔がにやけそうになった。グレイが怪訝そうな顔をしている事なんか露知らず。私は期待で満ちた瞳で彼をじっと見上げた。

「ハニーとか」

「ハ、ハ……っ」

私の期待は見事裏切られ、これまた敢え無く撃沈。耳まで真っ赤にしたグレイはピクリとも動かなくなった。
あーあ、少し期待してたのよ?私。
"ダーリン""ハニー"って呼び合うのちょっとだけ夢見てたのに。

ちらりとグレイを覗き見れば、彼は顔を真っ赤にさせて不安そうな表情を浮かべていた。

ズキン、と心が痛む。

考えて見れば完全に私のエゴだもの。グレイが人一倍こういうのに照れてしまうのは誰よりも知っているし、私を好いていてくれてるから私の希望を叶えてくれようって頑張ってくれてるのもよく分かる。きっとグレイのその2つの感情がぶつかり合って、今彼は困っているんだ。

「なーんてね!冗談よ!ごめんね、忘れて」

できるだけにっこり笑って彼を安心させようとした。
私の我が儘であんな顔させてしまった事が今は何よりも辛くて仕方がない。

「今日ご飯何にしよっか?何かリクエストある?」

出来るだけ普通に。いつも通りの新婚の夫婦に。けれどもグレイはそう簡単に切り替える事は出来ないのか、真剣な顔をして何も答えてはくれない。

どうしよう。
何となく気まずい雰囲気に堪えられず、グレイに背を向けキッチンへ逃げる事にする。今日はグレイの好きなものを沢山作ってあげよう。そしたらきっと彼もいつも通りに戻るはず。また笑顔で「美味いよ、クレアさん!」って褒めてくれるはずだもの。

次グレイを見た時は笑顔になってる事を切に願い、無意識に下唇を噛み締め私はエプロンに手を伸ばした。

「……クレア」

いま――

エプロンに伸びた手は、それに触れる事なく固まってしまう。
今、何て言ったの?
確かに聞こえた。けど自分の耳が信じられなくて急いで振り返る。

そこには、真っ赤なままの、柔らかく微笑むグレイの姿。
途端込み上げる気持ちに、今すぐ駆け出したい気持ちに駆られる。
嬉しさの余り、緩む顔を自分で止めることも、もうできない。

「ねえ、もう一度言って」

途端グレイは目を逸らし口元を抑える。照れ臭そうなグレイに、もう私の唇が尖ることはない。

「……ク、レア」

小さな、ほんとに小さな声だった。けれど、しっかりと私の耳に、心に、グレイの声は響き渡って、何か温かいもので私の心が満たされる。

「グレイ!……大好き!」

駆け出し、飛び込んだ先はグレイの胸。まるで止めをさされたかのようにガチガチに固まったグレイに、クスリと笑みが零れてしまう。ごめんね、もうしばらくこうさせてね。そう心の中で謝りながら、更にグレイに擦り寄れば、彼の早い鼓動が聞こえて来る。

彼の温もりが、伝わる鼓動が、全て愛しくて仕様がない。

あなたのたった一言で、こんなにも私は幸せに満ち溢れていた。





続きます(笑)


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