ふと目をやれば、思ってたより立派な背中をしていた事に驚いた。
こんなに背中、大きかったんだな。
彼と出会って幾月がたったというのに、私はぼんやりとそんな事を思っていた。
じゃれつく我が家の愛犬に必死に構っているその姿が愛おしい。そして私に気付かない事が、ほんの、少し、悔しい。
「わっ……!」
小さく声を上げて彼はバランスを取っていた。
ぱさりと帽子が落ちて、鮮やかなオレンジが現れる。
ああ、綺麗だなと思いながら、私は彼の首に回した腕に力を込めた。大きな背中に身を沈めたのは、私に気付かない彼に存在をせしめるためと、彼の大きな背中を見たら急に置いてかれそうに思ったから。
「ク、クレア?」
「……だめ。こっちむかないで」
想像通り彼は慌てて振り向こうとした。それを制する私。
少し悪戯心が働いた。
ほんとは彼の顔を見つめて微笑みたかった。
黙り込んだ彼は、罰の悪そうに言われた通りこちらを向かない。代わりに私の手に彼の手を重ねるものだから、心臓がおおきく跳ね上がってしまったではないか。
「珍しいね。クレアからこんなことしてくるなんて」
「グレイが中々私に気付いてくれないからよ」
それに、あなたの背中がおおきく見えて置いてかれそうに思えたから、とは言えないけど。
彼は私の返答に満足したのか、微笑んだ。表情すら見えないが、彼の周りの空気がやんわりと緩んだから手に取るようにわかる。
「ごめん。けどこんな罰なら何度でも受けたいと思った」
熱いのは、彼の体温が上昇したからか、私の体温が上昇したからか。
赤くなった彼の耳を見つめて初めて私の顔が熱いことに気づく。
言ってすっかり固まってしまった彼を見て、熱いのは大半が彼のせいだと私は思った。いや、そう考えるようにした。
彼がいなければ、顔が熱くなることなんてなかったし、彼に抱き着くことも、はたまたこんなに恋することもなかったはずなのだから。
「ねえ、グレイ」
「うん?」
呼ばれて彼は優しく返事をする。その声が、妙に心地好くて思わず目を閉じてしまう。力を抜けばそのまま眠ってしまいそうな心地さえして、結局すぐ重たい瞼を持ち上げたのだけれど。
彼の背中により身を委ね、腕に更に力を込める。ドクンと、心臓が大きく跳ね上がった。
「……私ね、グレイが思ってる以上にグレイの事、好きだよ」
なんで今こんな事を言ったのかは私にもわからない。
ただ、驚いたようにピクリと反応した彼を見て、何となく告げてよかったと思った。
そしてその言葉の後に、だからおいてかないで、と体の中で続けている自分を見付けて胸が締め付けられる思いがした。
決して偽りのない言葉だけど、こんな言葉で彼をつなぎ止めようとしていたのだ。同じスタートラインに立っていた彼にいつの間にかグイグイと先に行かれてるような気がして、極めつけに私に気付いてくれなかった事で置いてかれると不安で堪らなくなっていた。
すっかりとしがみついた私がそんな事を思っているだなんて彼は思いも寄らないだろう。
だけど、彼がくるりと振り返って、いつものように真っ赤になりながら、帽子のつばを下げる変わりに髪に触れ、はにかむ姿を見れば、そんな不安は何処かに飛んで行ってしまった。
初めて会った時とまるで変わらない笑顔が、まるで時を遡らせたかのように、あの頃感じた電流が走ったかのような感覚を呼び覚まして再び私を襲う。想いが、募る。
小さく、彼の名を口にした。
ん?と少しだけ首を傾げた彼に、軽く自分の唇を押し付ける。一瞬で離れたけれど、まるでずっと時が止まったかのような不思議な感覚だった。
驚いた顔をした彼に、私は悪戯っ子のように、だけども穏やかに笑みを浮かべる。
「振り向いちゃだめって言ったのに」
うそ。本当は私を見てほしかった。
彼は恥ずかしそうに眉間に少ししわを寄せている。少し俯いた顔はいつも通りの私の大好きなあなた。
それをみて思わず顔が緩む私。
「……俺だって、大好きだ」
「うん。それは私が一番知ってる」
「あ〜あ。狡いよ。クレアは」
うん。それも私が一番知ってる。
だってあなたを独り占めしたいと思ってるんだもの。
顔を上げた彼はふわりと微笑んだ。そしてそのまま、何事もなかったかのように私に口付ける。
ああ、やっぱりあなたも狡い。
私を狡くさせる、あなたが狡い。
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