(…やっぱりな、) 細い弦月を背中に背負い、すらりと漆黒に溶け込む衣装に身を包んだ彼はふ、とその口許を緩めた。 その身体を潜ませるのは、自分の家の屋根。 とある部屋の一室から、微かに劇の台詞を練習する彼女の声が聞こえる。 (…『これ』なら、その練習…手伝ってやるよ) 幸い、疑いの目を向けるであろう隣家は留守。 これはチャンスと信じる彼は、白いマントに一瞬で着替えると、音もなくそのベランダに降り立った。 * * * (えっと…なんでこうなったの??;) 雛は淡い月光の影になった彼の表情を読み取れずにいた。 隣に住む青子の家が留守で、更に今日は快斗まで出掛けているから、さっきまで一人で声に出して台詞の練習をしていたのだが。 ──まるで秘密の友人のように窓から訪れた『彼』に、正直戸惑っている。 「あの…キッド?」 「なんですか、雛嬢?」 「えっと…、」 悪戯に緩む口角に、「解ってるくせに」と唇を突き出したくなった。 劇の練習をしていたと知るやいなや「では私がお手伝い致しましょう」と、さっさと台本を取り上げられてしまい、対面している。 更に台詞を促すように笑まれ、二の句が継げない。 雛は深呼吸し観念すると、ようやく彼に向き直った。 「…一度ならず二度までも、私をお助けになる貴方は一体誰なのです? あぁ、黒衣を纏った名もなき騎士殿…私の願いを叶えて頂けるのなら……どうか、その漆黒の仮面をお取りになって…素顔を私に…」 「あぁ…それが姫の御望みとあらば、醜き傷を負いしこの顔…月灯りの下に晒しましょう…」 一歩、彼女へと踏み出した彼は、しかしその白いシルクハットを目深に被った。 陰になったその顔は余計見づらいが、台詞の先を待っていることは明らかだ。 (…晒すどころか隠されてる;) ちょっとしたショックと、彼らしいと苦笑してしまいそうになるのを堪えて、一度目を閉じて息を整える。 いつの間にか、心臓の音が耳に響くように聞こえた。 「貴方はもしやスペイド… ──昔…我が父に眉間を切られ、庭から追い出された貴方が…トランプ王国の王子だったとは…。 ああ、幼き日のあの約束をまだお忘れでなければ…どうかわたしの唇に…その…───っ!!?」 ぐいっと引かれた腰はそのまま、彼に支えられて行き場を失う。 「ちょ…っ////」 驚きで肘を曲げたまま宙に浮く両腕を気にすることなく、近づいてくる彼の顔が雛を通り過ぎて頬に触れた。 思わず顔が少し下がり、ぎゅっと目を瞑ってしまった。 ─柔らかく触れたそれが「ちゅ、」と小さな音を立てて離れると、身体中の熱が沸き立つように雛の顔が真っ赤に染まる。 「…雛嬢、」 「〜〜なっ、////」 「…あぁ、失礼。あなたがあまりにも積極的で可愛らしいので、演技を忘れてしまいました」 ニコリ、とわざとらしい笑みを作る彼が、まるで降参とばかりに両手を軽く上げると雛から離れて、「真っ赤ですね」と嬉しそうに彼女に声をかけた。 「からかわないで…///」 「心配せずとも、口付けはちゃんと別の機会に取っておきますから」 「し、しないもんっ////」 くつくつと笑いを噛み殺しているが、それでも抑えきれないのか、キッドの肩が震えている。 「くくっ…、いや、相手役が女性じゃなかったら、盗んでいるところですよ」 私も観に行きますから頑張ってくださいね、と髪を撫でられた彼女が赤く染まる頬をぷいと背ける。 夜更けの楽しい稽古は、それからしばらく続いたとか続かなかったとか。 戻る |