夢を見ていた。
毎日のように現れるその女性は、美しくて、慈愛に満ちていて、いつだって切嗣を暖かく包んでくれる。ただ一つ問題だったのはここ数日ではその女性の名前を思い出せなくなっていたのだ。どうしてだろうか。あんなにも、僕は彼女を……彼女を?
君は誰かと尋ねても、彼女は困ったように笑うだけで、答えをくれない。白いドレスのスカートと、長い銀髪をはためかせて、ただ困ったように笑うだけなのだ。そういえば、彼女の声を聴いたこともない。確か、彼女は愛らしい少女のような、優しい母親のような人だった、気がする。
声も名前も忘れてしまっているのに、彼女は憤慨する事も呆れる事もなく、ただ蹲る切嗣の隣にそっと立って、優しく抱きしめてくれるのだ。
それはそうだろう、ここは切嗣の夢の中で、彼自身が持ち合わせている知識と記憶でしか成り立たないのだから。それは、あの泥の中で微睡んだ時のように。
ただあの時と違い、今度は切嗣がその女性を拒むことはなかった。
それでも切嗣は少しずつ、彼女を忘れて行った。
彼女の名前を、声を、表情を。
そのうちに彼女の姿かたちさえも忘れてしまうような気がして、切嗣は恐怖した。次に眠った時には、恐らく、そんな女性が居た事さえも忘れてしまいそうで、必死に微睡に抗おうとしていたのだ。
――ああ……そっかきみは、ぼくの――
それが切嗣の間違いではなければ、最後に呟いた言葉を聞いた彼女は、とても嬉しそうに笑っていた。
切嗣は暇さえあれば眠っている。
衛宮切嗣が己の罪と向き合ってから数週間。すっかり魂の抜けてしまった様子にそろそろ綺礼も飽きてきた。こういったモノは時間との勝負なのだろう。焦ってはいけないと分かってはいるものの、時間は限りなくあるように見えて、実は少ない。まだ暖かいシチューの皿を運びながら、いっそのこと、もう一度正気に戻してやるべきなのかとも思案する。
結局のところ、魂が抜け落ちたような状態になっても、衛宮切嗣は言峰綺礼をその眼に映す事はなかった。ただその眼が、拒絶からであったり嫌悪からであっても綺礼を映す――それが魔力供給に託けた性行為だった。
別に身体の相性が悪いわけでもなく、寧ろそれは良い方であったし、何も危惧する事はなかった。一度中で精を放てば、魔力に酔った切嗣は綺礼の名前を何度も呼んで、舌を、足を絡めて逆に綺礼を誘ってくるくらいだった。
ドアを開ける音と、差し込む光でゆるりと切嗣の意識が浮上する。目を開けた切嗣は、不思議と自分の頭の中がやけにスッキリしている気がしていた。スッキリした、というよりは、まるで全て消えてしまったようで、だがそれに対して切嗣は何の感想も沸かない。
――ここは、どこだろうか。
「起きたか」
「――――? ……ええと、きみはだれだい?」
問われた綺礼は一瞬虚をつかれてしまった。彼に演技をしている様子もなく、ただ純粋に目の前の人間が誰だかを確認しているように思える。綺礼はそのまま自分の名前を告げ、持ってきたシチューを机へ置いた。
「…………………ことみね、きれい」
言葉を確認するように、飲み込むように繰り返す切嗣に、綺礼の中でざわつく何かを感じる。何かがおかしい、ような。
これまでの無気力とはまた違う。もっと別な、そう、それはまるで。
「―――――――――じゃあ」
ぽつりと溢した。その言葉に、綺礼は心の奥底から湧き上がるような感情を、熱を感じる。ああ、やっと。
「…………ぼくは、だれなんだい?」
あまりに辛い現実に直面すると、人は無気力になると言う。
彼もそうなのだろうか。アレはどちらかというと、全てを放り投げてしまったように思えるが。どちらにしろ、堕ちるとこまで堕ちた男を目にしてどうしようもなく高揚したのは事実だ。
生まれたばかりの赤子に等しい精神状態の彼が更に堕ちて、自分に依存しきった所で突き放すないし、可能であれば我に帰らせることが出来るのならば、それは最上の美酒にも勝るのだろう。
カチャカチャ、とシチューの入った皿をスプーンでかき混ぜながらそう思案している綺礼に、行儀が悪いぞ、と少年の声が制した。
「すまないね」
「別にいいけど。……なあ、何かいい事でもあったのか」
少しだけ楽しそうだな、と正面に座った少年は綺礼に疑念をぶつける。
赤とも茶色ともつかない地毛にしては珍しい髪の色の少年は、先の大災害による被害者――災害孤児だ。少年を引き取ったのは、別に贖罪でも何でもない。その方がきっと楽しいと判断したからだ。
「――いや、何。ペットの躾と言うのは存外に楽しい物なのだと思ってな」
「……? うちはペット飼ってないだろ?」
「聞いた話だ」
「ふうん。ああ、確かいつも日曜礼拝に来るお婆さんが猫を飼い始めたって言ったっけ……」
そのまま話はうやむやに、流されてしまう。
ああ、彼にこの少年を会わせればいいのだろうか。少年がもう少し成長して、全てを理解した時に――その時この少年は、それでも衛宮切嗣を恩人だと言い切れるのだろうか。自分から全てを奪った男と対峙した時、どんな言葉を吐くのだろうか。それが楽しみで仕方ないのだ。
少年は、事あるごとにあの人が助けてくれた命だから、とその男を崇拝しているかのように語った。
幼い少年の中では、自分を死の淵から救ってくれた男ともなれば紛れもなくヒーローそのもので、神に等しい扱いになるのも納得がいく。
やれやれ、と呆れる綺礼はじゃがいもを潰していたスプーンを置いた。そのまま頬杖をつくと、だから行儀が悪いって、と注意されてしまうが気にしない。
「―――――そうだな、いつかうちでもペットを飼おうか」
「いきなりどうしたんだ?」
「お前にも世話が出来るような歳になったら、その時は考えておこうか、士郎」
きっと、楽しいぞ。
それは自分を子ども扱いしているのか、と少し不満を抱いたものの、笑う綺礼がとても楽しそうだったから、少年――士郎もつられて笑った。
――それが自分と男にとって最悪の再会になるかもしれないとは知らずに。
檻の中の遊戯
(全ては彼の暇潰し)
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