空いている会議室に辿り着くまでは散々だった。
数mの移動距離であれど、まだ勤務時間の真っ只中だ。多数の好奇の視線に晒されるそれが、綺礼はあまり好ましくないと思っていた。胸の奥が閊えるような、ジリジリとした何かが綺礼にまとわりつくのだ。
ああ。またいつもの事か、と遠巻きに見る人間から、そういった現場を見た事のない署員は声をあげて驚いていた。それもそうだろう。返り血にしろ自分の血にしろ、青い制服をどす黒い色に染めて署内を歩いているなど、それこそドラマの中での話だと誰もが思うだろう。

切嗣を運んだ後、救急箱を取りに戻れば、難しい顔をしたアルトリアが書類に向かっていた。綺礼に気付くと、ああ、これ差し入れです。と二本のブラックコーヒーを渡した。そして丁寧に切嗣をお願いします。と頭を下げられてしまえば了解するしかない。成程、やはり出来た部下だ。

 
会議室に戻れば、切嗣は立ち上がって一瞥し、手の中の救急箱を睨み付けた。
電話をしていたらしく、酷く機嫌が悪い。どうせ上から咎められたのだろうがそれは確実に上が正しい。我々は慈善事業ではないにしろ、平和を守るという名目で動いているのだから。その人間が平和を脅かすような行動を取って言い訳がないのだ。

「処置位自分でやるからいい、君もあっちに戻りなよ」
「……馬鹿なのか。お前は」
「なんでさ」

救急箱をひったくろうとした切嗣に対して彼に届かないように箱を持ち上げる。腕が上手くあがらないのか、拗ねたようにそっぽを向いてしまった切嗣に対し、綺礼は大げさに溜息を吐く。ガキか、此奴は。
 自己犠牲が美しいという人間はたくさん居るだろうが、綺礼はそうとは思わない。そんなものはただの自己満足にすぎないのだから。その最たるを地で行く衛宮切嗣という人間は、綺礼には理解し難い存在だ。

「その出血だ。深く切られたかもしれないだろう、見せてみろ」
「………………」
「早くしろ」

嫌だ、という反抗は認めないとばかりに椅子に座らせる。そろそろ血が足りなくなって立っている事もそろそろ辛いのだろう。さして抵抗をする事もなく、大人しく椅子へと座った。
上着を脱いで、血でベタベタになってしまった制服をそのままハサミで切っていく。胸のあたりに線の様に入ってしまった傷に、綺礼は顔を顰めた。
傷口は思ったよりも浅く、既に血溜まりのように固まっている部分もあった。

「……私は別に医者ではないのだが」
「だから、別にいいって言ってるし、絆創膏でも貼っておけばそのうち治るよ」
「ほう、随分マニアックな趣味をしているのだな?」

にやにやと笑う綺礼の含んだ意図に気付いた切嗣は盛大に顔を顰めた。何言ってんだこいつ、と言いたげな目線にも綺礼は堪える事もなく飄々と受け流してしまう。

「……君って、割と最低だよね」
「それは褒め言葉として受け取っておこうか」

そもそも頼んでないし、と拗ねてしまう切嗣に彼女に任せたと言われたからな、と返せば切嗣は大げさに手を頭上にまで翳して、悲観的に嘆いた。

「ああ、君といいあの子といい、僕は部下や同期に恵まれなかったんだ。きっとそうだ」
「何を言うか。彼女はよくやっているだろう。むしろ彼女の方が上司に恵まれなかったな、可哀想に」

希望に満ち溢れてやってきた新人だというのに、直属の上司がコレじゃあ、彼女も可哀想だろう。思った事をそのまま伝えれば、バツが悪そうな顔をする。成程、今回は何かしらで彼女に対して引け目を感じているのだろう。
先程貰った缶コーヒーを渡せば、目をぱちりと開けて困惑する。その恵まれない部下からの差し入れだ、と言えばしぶしぶだが受け取った。じい、とラベルを見詰めた後にその缶コーヒーを綺礼に差し出す。

「言峰、開かない」
「……はいはい」

上手く力が入らないのか、最初から放棄して綺礼に渡した。そもそも切嗣は普段は自動販売機でもカップのコーヒーを愛飲している。プルタブを開けるのが苦手な切嗣に対して缶コーヒーをチョイスしたというのは、彼女なりの意趣返しなのだろう。
缶を渡せば切嗣はそのコーヒーを一気に飲み干してしまった。その表情は何かを思い出したのか、僅かに歪んでいる。

「…………そうだよ。あの子は悪くないよ。そんな事くらい分かってる」
「偉く今日は素直なのだな?」
「……、つうぅっ、それ、やめ……」

放っておいても破傷風になる事もなさそうなので消毒液のよく染み込んだティッシュでとりあえず患部をなぞると、酷く情けない声がする。普段は毅然とした態度で文句ばかり言う口から洩れていると思うと思わず口角が上がってしまう。
滅多に見せる事のない切嗣の弱さが、綺礼にとってはとても甘いもののように思えてしまうのだ。

そんな事を知らない切嗣は頭上に翳した左腕で目元を隠しながら、懺悔をするようにポツポツと言葉を漏らした。

「……泣かれたのは初めてだったんだ」
「…………ほう」
「もう少し自分を大切にしてください、って。僕だって死ぬのは怖いし、別に大切にしていない訳じゃないのに」
「…………」

忌まわしいくらいに脳裏に焼き付いてしまった。
犯人逮捕後、いつものように説教が来ると思えば、彼女はまるで小さな少女のように、目に大粒の涙を浮かべて懇願してきたのだ。


――貴方は本当に馬鹿なんですか!?
――なんでさ。今回は別に周りに迷惑はかけていないだろ
――もっと、もう少しで良いから自分を大事にしてください……! でないと私は、私は……!


それならばまだ、いつものように怒鳴られた方がマシだった。彼女の言葉で自分はもしかしたらとても悪い事をしたのではないか、という錯覚に陥ったのだから。

「……あの子は僕の事を散々外道だなんだって言うけどさ、それならあの場で彼女の名前を出すのも卑怯だと思うんだ」
「私はカウンセラーでもないのだがな」
「だから! 別に……話すつもりなんてなかったし……」

忘れろと言わんばかりに言葉尻が下がる切嗣に何も答えずに包帯を巻く手を止めない。巻き終えた包帯を金具で止めてやると同時に綺礼は、真っ新な包帯を、その傷口を軽く叩いてやった。

「いっ、だあ……」
「別に私は彼女の様に咎めたりはしない」
「……………………それも知ってるよ」
「お前が痛みに呻く姿は中々に見物だからな」
「やっぱり君は最低だな!」

喚く切嗣に対し綺礼は笑顔で往なす。この男は本当に馬鹿だな。
先程貰ったもう一つの缶コーヒーを開け、飲み干す。時間が経ってしまったせいで少しだけ温くなってしまったのが残念だ。

「――こうした私の特権がなくなってしまうのも、つまらないからな」
「? 何か言った?」
「いや、何も」
「とりあえず部署に戻りたいから肩貸してくれないかな。着替えなきゃ帰れないし」
「な…………っ、衛宮……お前には半裸で署内をうろつく趣味があったのか……?!」
「何その心底吃驚したみたいな表情! さっき君が思いっきり切ったからだよね?!」

このまま帰った方がよっぽど不審者だろうと憤慨する。そんな事は当然だというのに、軽いジョークだ。

「それならば、仰せのままに」

「―――――――う、わっ」



膝裏に手をかけ、そのまま持ち上げる。
唖然とした切嗣をそのまま抱きかかえ、抱えた切嗣に救急箱を持たせた。そしてそのまま部屋を出ようとすると、我に帰った切嗣が腕の中で暴れ始めた。

「ちょっと待て、言峰! そのまま運ぶ気か?! マジで勘弁してくれ!」
「貧血気味の怪我人を歩かせるわけにはいかないだろう?」
「今! 現在進行形で僕が怪我してるから! 心が大怪我してるから! 降ろせ! ………うあっ……」

あまり暴れると傷に触れるぞ、と言うが先に既に触れていたようで、小さく呻いた。
人目を気にしているのだろうがその喚いた声によって衆人環視に晒されているという事に気付いていない辺りが本当の馬鹿だ。せめてもの情けと先程に破いたシャツを頭からかけてやった。
乾いてしまっているが、血の匂いはまだ残っている。

「……まるで死体を運んでいるようだな」
「人を死体扱いするな!」
「ああそうだな、死体はこんなに喋らないな」
「…………もうやだ」

冷徹だの外道だの言われている切嗣の表情がグルグルと変わる様を見ているのは、正直飽きない。ただそれは彼の中で不本意にも限られた人間らしく、チームの人間以外には冷徹外道の異端者だと思われている。
実際の衛宮切嗣はブラックコーヒーが苦手で、存外に甘い物が好きで、正義の味方に憧れてこの職を選んだ、子どもがそのまま大きくなったような人物だと言う事を知っているのは限られた人間で良いと思うのは、それこそ子どもの独占欲に似たようなものなのだろうと綺礼は内心苦笑する。
消沈して完全に黙り込んでしまった切嗣を運ぶ綺礼の表情は、その内心とは裏腹に無表情がデフォルトである彼にしてはとても穏やかだった。

  







焦がれた傷跡
(抉って愛して)