「それってアレじゃね? 通い妻」

 「…………君は殺されたいのか」

 「あ、はいすみません」

 「………冗談だよ」



 目がマジじゃねえかと呟く雁夜は無視した。久しぶりの飲み会で、メンバーが高校時代からの友人達だったからかついつい飲みすぎてしまい、そのまま吐き出すように愚痴ってしまった。自分の情けなさを吐露する結果になるからあまり他言はしたくなかったけれど仕方がない。



 「でも綺礼ってモテるんじゃねえの」

 「…………知らない」

 「知らないって、お前」

 「なんでさ、綺礼がどこの誰と付き合おうが、僕には関係ない事じゃないか」



 ああ、飲みすぎたな。頭が重いし、ぐらぐらする。潰れるように机に突っ伏していたらそろそろ帰れとか何とか頭上で聞こえたけどそれも無視した。だってどうせ帰ったらまた、綺礼がいるだろう。居たらきっと、小言を言われながら介抱してくれるに決まっている。情けなくなるのはもうごめんだ、既に情けない状態なのはこの際無視して、だ。





 結局家に着いたのは終電で、足取りが覚束ないままふらふらと歩いた。駅から近い事に感謝しながらもガチャガチャと鍵を差し込むがうまくいかない。あーあー、もう。
 何回かの攻防を繰り返してやっと鍵が開いた。開けてみれば薄暗くて、今日は来ていないようだと悟った。

 とりあえず水を飲もうとリビングにいけば、手を付けられていない夕飯があった。几帳面にラップで包まれていて、こんな事をする人間は一人しか知らない。ああ、僕の帰りが遅かったから自宅に帰ったのか。
 そうだ、綺礼だっていつも僕の傍に居る訳ない。いつかは離れて行ってしまうんだし、もしかしたら既に彼奴にだって彼女の一人や二人、いや二人居たら拙いけど、そういう、恋人くらいいるかもしれない。


 思えば僕は、今の綺礼の事を知らない。
 いや、知ってはいる。知ってはいるけど、それは幼い頃から一緒に居たからであって、だから今の綺礼を良くわかってない。好きな食べ物だって、それは昔の記憶で、今も同じなのかは知らないし、彼奴の恋人以前に交友関係も知らない。いや、別に知った所でどうなるかと言われれば特に何もないけれど。



 「…………」



 しんと静まる部屋は、時計の秒針だけやけに響く。あの時と同じで、怖いとも思った。寂しい訳じゃない、辛い訳でもない、ただ、ぼろぼろと堰を切ったように涙が出る。ぼんやりと、まだ、この家に来る前の事を思い出すのはきっとアルコールの所為だろうか。



 「き、きれ……い、……………きれいの、ばかやろー……麻婆廃人、鉄仮面、ターミネーター……うう、」



 情けない。こんな時に一番に思い浮かぶのが綺礼しかいない自分がだ。どれだけ僕は綺礼に依存していたんだ、知らない間に。考えたら少しだけ怖くなった。自分でも気づかないうちに綺礼に依存していたなんて、これじゃあ僕が綺礼離れしなくてはいけないじゃないか。
 ぐるぐると考えていたら逆流してきた、あ、やばいこれ凄い気持ち悪い。自分の思考的にも、身体的にも。ちょっと本気で吐きそう……。
 とりあえず、この夕飯は明日にでも食べよう。とにかく今は水だ、水が飲みたい。その前に電気をつけたい、と思ったら電気が勝手についた。……勝手に?




 「………………私は切嗣に罵倒されるような事をした覚えがないんだが?」

 「―――――は」



 聞きなれすぎた低い声に振り返ると、そこに居たのはやはりというか、当然と言うか、綺礼だった。ドアの前に凭れて、訳が分からないと首を傾げていた。
 何言ってんだこいつ、え、そもそも何で居るの、帰ったんじゃないのか、という質問は水を手渡されて終わった。こんな時にも良く出来た人間だなあとしみじみ思う。だからこそ、なんでこんな。



 「え、だって、は? ……かえったんじゃ……」
 
 「一度も帰ったなどと言ってないだろう」



 さも当然と言わんばかりに応えられてしまえば確かにその通りだった。だけど、いや、そんな。アルコールの所為でか思考回路が纏まらない。ぼろぼろと流れていた涙も止まってしまうくらいには驚いている。目尻に溜まった涙を綺礼の手が拭う、その手は優しかった。



 「私に不満があれば言えばいいだろう」

 「〜〜〜〜っ そんなの、不満だらけだ!」

 「ほう?」

 「どうして綺礼はそうやって、僕の事ばっか、…………いつも僕のことばっかり気にしてるし、でも何か嫌がらせばかりしてきて、…………何でも出来るくせに、そうやって、何も言わないでいつもそばにいるし、僕が、それで、僕が、どんな思いをしてるかも知らないで……」



 ああもう、ぐちゃぐちゃだ。頭の中がぐちゃぐちゃで、良くわからない。とにかく何で綺礼は僕に構っていても一つもメリットがないと言うのに、何で。そうやっていつも、もしかしたら彼女だって居るのかもしれないのに、こうやっていつもここに居たら
 うだうだと言っていたら綺礼が固まった。え、なに。ちょっと意味わからない。



 「そうか、ならば私も問わねばなるまいな」

 「は?」

 「色々と好き勝手言ってくれたようだが、私にも言い分はあるのだぞ?」

 「あ、いや、それは。その……」



 しどろもどろになる僕に対して綺礼は楽しそうだ。話は寝室で聞こうって、ちょっと待て、そこは僕の寝室だしそれに何かついて行ったら大事なものが失われる気がする。



 「大丈夫、明日は休みだ」



 悪魔が笑ったような、気がした。







  
 切嗣の帰りが遅いから今日は先に自宅に帰ろうと思った時に、とある先輩からメールが来た。何でも切嗣が珍しく潰れてしまった、という事と、もう一つ。



 「後で礼を言っておかなくてはいけないな……」



 あの後には結局美味しく頂いたといえばそれまでだったのだけど、切嗣も負けじと応戦してきた。その時間を僕なんかより恋人に使ってやれだの、僕には何もないんだからだのと勝手な妄想を繰り広げられた時には正直笑い出したくて仕方なかった。最終的には褒めているんだか貶しているんだか分からなかったが、多分、切嗣は最大限のデレを見せただろう。録音しておけば良かったかと少しだけ後悔した。



 初めて切嗣と出会った時の事は、あまり良く覚えていない。
 そう切嗣には伝えてあるが、本当はそうではない。今でも確りと憶えている。一目見た時に、きっと彼は自分の足りない何かを分かってくれるのではないかと思った。実際に分かってくれる事も導いてくれる事もなく、足りないものは足りないままだったけれど、切嗣の隣は存外に居心地がよくて、普段冷静な切嗣が動揺したり嫌がる様は愉しいとさえ思えた。

 両親を亡くした時も気丈に振る舞っていた切嗣が、彼を長く養っていた養母が亡くなった時、その表情を見て、静かに絶望を受け入れた彼の顔がどうしようもなく愛おしく思えた。何もかもを喪ってからっぽになった切嗣が、色の無くなった目で私を見てぽつりと「綺礼」と名前を呼んだ時に、足りなかった自分の心が満たされるような、そんな気がした。そう、ただ、それだけ。

 恋だなんて優しい感情も、愛だなんて暖かい感情でも、どちらもきっと、自分には縁がないと思っていたし、それで良いと納得していた。だけど、その優しさも暖かさも知ってしまったからには戻れない。



 「さて、起きたら何て言うんだろうな」



 彼はどんなに酒を飲んでも宵越しの記憶を維持するタイプの人間だ。覚えていないで済まされない。きっと自己嫌悪と羞恥で騒ぐのは目に見えている。熱い告白も、ベッドの上で見せた可愛らしい姿も、全て記憶に残っているのだろう。悪夢として。
 暫くはこのネタで弄ってやろう、さぞ嫌そうな顔をするだろう。羞恥で震える切嗣は容易に想像がつく。せめてもの機嫌取り、ではないが朝食は暖かいモノを用意してやるか。
 台所へと向かう足取りは、軽い。





モラトリアム
(これまでも、これからも)