夜の街中を走る切嗣は、激しい後悔に襲われていた。聖人の誕生を祝う日は、いつの間にか恋人同士のイベントになっている。この街だって同じだ。いつもより浮かれた装飾に包まれた街で、聖人の誕生を本気で祝うつもりの人間がこの中で何人いるのかを数える方が恐らく困難だろう。
――ああ、やってしまった。何度ともない後悔が切嗣を襲う。ただ、これは自分だけが悪いのだろうか、とつい考えてしまう。だってそうだろう。いつも自分ばかりが焦って、感情を剥き出しにして、綺礼はいつだってどこ吹く風とばかりにその内に秘めた感情は見えない。それが切嗣には堪らなく嫌だった。子どもっぽいと思われるかもしれないが、何とも言えない歯がゆさがあったのだ。それでも。



 ――…………僕は君の事を信じてなんていない



 言ってしまった。今まで言い争いなんて何度もあったけれど、今回こそ本当に駄目だ。言葉を告げた綺礼の表情は、微かに驚いたようにも見えたけれど、そんな事を確認していられる余裕はなかった。自分の吐いた言葉の意味を確認するよりも先に、足は走って逃げ出していた。きっと、綺礼が本気を出せば切嗣の事なんて簡単に追いかけられる。切嗣は綺礼に長距離でも短距離でも勝てた事はただの一度もなかった。なのに、綺礼が切嗣を捉える事はなかった。元より、綺礼がその場から足が縫いつけられたように動けなかっただけだったのだが。



 「……は……あっ」



 どれくらいか走った頃に、自分の携帯電話が震えている事に気付く。脳で違うと理解していても、期待してしまう事は責められることではない。だが今の切嗣には、その小さな期待さえも自分の浅ましさそのもののようで、耐え切れなかった。携帯の震えが止まった時、今度は自分が震えそうだった。ここは酷く寒い。コンビニの店員が、外に出た巨大なツリーを片づけているのをぼんやりと眺め、息を整えながら思う。いつからクリスマスは当日よりも前日に重点が置かれるようになったのか、そんな話をしていたのは数時間前の事だったというのに。



 「……最悪だ……馬鹿……」



 呟いたのは、何も言い返さなかった彼に対してなのか、それとも自分自身か。きっと後者だろう。どうしようもない遣る瀬無さを抱いたまま、帰路に着く。もう全てが億劫に思えた。何も分からなかったのだ、綺礼の本心も、自分の焦燥の正体も。首に巻いたマフラーが暖かく、まだ隣に彼が居るような、そんな錯覚を起こした。





 街が浮かれ騒いだ日から三日も過ぎれば、今度は年末へ向けて忙しなく動き出す。存外にイベント事が好きなのだろう、日本人という者は。でなければ異国の文化と自国の文化を両立させるだなんて滅多な事ではないだろう。綺礼はぼんやりと考えながらその手の中の携帯電話を弄ぶ。
 あの後すぐに追いかけられなかったのは、自分にきっと疾しい気持ちがあったからなのだろう。勿論彼の事は大切な友達だと思っていたが、それ以上を求めないわけではなかった。それでも友達、というポジションは案外気に入っていた。仏頂面に見えて、存外に表情が豊かな彼を眺めているのは楽しかったし、可愛らしいとも思えた。



 「………っ」



 不意に小刻みに震える携帯電話に、少しだけ過剰に反応してしまう自分自身が綺礼は浅ましいと思う。彼の不興を買ったのは自分なのだから、これがそれに対する然るべき罰ならば、甘受する以外に道はない。手元の機械に目を向ければ、発信者は待ち望んで居た人物ではなかった。何を期待しているのか、自分は。


 
 「……もしもし」

 『そんなあからさまに嫌そうな声で出るのやめろよ』

 「……そんなつもりはなかったんだがな」

 『はいはい』



 電話の主は学友の一人だった。綺礼のクラスメイトの幼馴染という事でなんだかんだよくつるんでいる友達だ。尤も綺礼のクラスメイト――時臣は、重度の機械音痴の為に携帯電話を使用しないのだが。雁夜は軽い調子で言葉を繋ぐが時折咳込んでいる。



 「雁夜、また体調を壊したのか?」

 『あー……ちょっとな。まあ初詣までには治すから』



 年越し寝たままとか洒落にならないし、と笑う雁夜を後目に、初詣の言葉に綺礼は顔を少し顰めて、相手が電話で良かったと思ってしまう。きっと今の自分は情けない表情をしているのだろうから。冬季休業中の学校だが、何かしらで集まれればいいという事で初詣にみんなで行こうと約束していた。雁夜は何が悲しくて男同士で、とごちていたが、存外に楽しみにしていたのだろう。少しだけ心が軽くなる、ただ、その初詣が綺礼にとっては鬼門だった。初詣に行くのはつまりいつもつるんでいる学友。その中には当然切嗣もいるのだ。三日前にあんな事があった手前、会うのは少しだけ、否、かなり気まずいものがある。



 『ああ、それでだ。綺礼お前、 切嗣と喧嘩でもしたのか?』

 「………どうして」

 『いや、何かお前にマフラー返しといてって言うし、初詣も行かないとか言い出すし……』

 「……」

 『喧嘩はいつもの事だけど、何かあったんじゃねえかって』

 「そうか」

 『…………お前さあ……、あー……いや、なんでもない』



 まあいいや、そう言って雁夜はそれ以上綺礼に言及をしなかった。それから軽く会話を交わし、電話を切った。綺礼はそのまま携帯電話を操作する。この数日、幾度となく選択しては電源ボタンで消し去っていたその番号を選択していた葛藤が嘘のように、流れるように、そう、これまでいつもしていたように。コール音が鳴り響く、数十回のコールの末にとうとう諦めたのか、コール音が止んだ。だがしかし、相手は何も言わない。機械を通した世界はこんなにも遠く、無機質だ。
 


 「……今からそっちへ向かう」

 『………………は?』
 
 「どうせ家に居るのだろう?」

 『………いや、そういう問題じゃなくて』

 「なら何が問題なんだ」

 『……君は、いつもそうだ……………ああもう、わかったから』



 小さく溜息をついた切嗣は、降参したとばかりにお互いの家の間にある公園を指定した。下校の際によく寄り道をした、くだらない事を延々と話していた事は記憶に新しい。そしてその公園のベンチに座りながらどうしてこうなってしまったのか、と切嗣は心の中で何度も繰り返していた。どうしてこんな、安いドラマみたいな事を繰り広げているのか、そんな事は明白だ。友達以上、恋人未満、そんな関係を潰したのは他でもない自分自身だったからだ。



 「本当にそれで良かったのか」

 「ああ、……ありがとう」



 綺礼が差し出した缶を切嗣が受け取る。寒いからと綺礼はホットコーヒーを、切嗣はお汁粉の缶を持って二人並んでベンチに座る。流れる沈黙が痛い。今まではどうやって話していたのか、この三日で全てを忘れてしまったようだった。そもそもそんなに言葉数が多い二人ではないから、だからこそ言葉を尽くさないで済む関係は居心地が良かったと言うのに、今ではこれっぽっちもそうは思わない。息がし辛い上にこの空気に耐えられない、折角のお汁粉の味も今の切嗣にはよくわからないでいた。



 「……それで」

 「…………」

 「こんな寒い中、人を呼び出したのは」



 そんなこと聞かなくても分かっている、分かってはいるが口をついて出た言葉は消えないし、止まらない。そうではない、そんな事が言いたいわけではなかったのに。結局何も変われないのだ。友達にさえ戻る事が出来ないのだろう。それは少しだけ、寂しい。ただそれを今は相手に悟られぬように、取り繕うまでだ。
 綺礼は何も言わない、いつもの様に、ただ黙って此方を見ているだけだ。それが暗に自分を責めているような気持ちになって、切嗣には居心地が悪い。流れる沈黙が息苦しい。もう何が原因で言い争いになったのかさえも思い出せない、きっとそんな些細な事だったのだろう、それが何故、こんな。

 暫くの沈黙の後。切嗣はぐい、と引っ張られるように綺礼に腕を引かれ、そのまま唇を重ねられる。最初は触れるだけのものが、舌を捻じ込まれそうになり、我に返る。体格差と力の差で勝てないのは歴然だったが、胸板を拳で叩くと、意外にも簡単に彼は離れた。



 「口で呼吸をしようとするな」

 「そういう問題じゃない! なにして……っ」

 「……私はお前に問わなければならない」

 「は?」



 この胸中の焦燥が何を意味しているのか、そう真面目な顔をして言われてしまえば切嗣も戸惑う。それはつまり、綺礼は。――なんだそれは、実に馬鹿らしい。あれだけ悩んでいた自分が馬鹿ではないか。それに、無表情無頓着を決め込んでいたと思っていた綺礼も同じように思っていたとなれば、本当にバカバカしい。更には自分自身で既に分かっているのにわざわざ切嗣自身に問うなど、とんだ茶番ではないか。切嗣は全てが吹っ切れたように笑った。久しぶりに見たその表情に、綺礼の表情も柔らかくなる。



 「……本当に、馬鹿だろ、君は……ふふっ」

 「そうかもしれんな」

 「ああ、本当に馬鹿だよ。…………………綺礼」



 誕生日、おめでとう。
 切嗣は綺礼の唇にそっと、触れるだけのキスをした。










ばかなふたり
(おめでとう、)