・もしも島の事件に22歳くらいの代行者綺礼がやってきて、切嗣を引き取ったら





二日ぶりに戻った自宅を開けると、少しだけ温まった部屋に綺礼は僅かに顔を顰める。だが、すぐに納得が行き、自室へと足を進める。先日から綺礼はとある同居人を迎えていた。この時間ならば同居人はきっと眠っているであろう。彼に出会ったのは紛れもない偶然であり、そこに他意はない。彼を迎えたのはほんの、好奇心に似たような物だった。いや、妻に先立たれてしまった憐れな息子の励みになればという、父なりの優しさもあったのかもしれない。だが綺礼にとってはそんな事はどうでもよく、彼に出会った時の事を思い出す。
――あの光景は地獄と称するに値する惨状であった。この世とは思えない光景を映す島で、一人残された彼は涙を流すことなく死体を前に立っていた。握られた、幼い少年には不釣り合いな、彼にとって云わば呪いとなるそれを手から離すことなく、ただ小さく震えていたのだ。



「―――――――チッ」



感情を表に表す方ではない綺礼が、盛大にその顔を歪め、舌打ちをした。綺礼が同居人の為に用意していた食料は予想以上に減っておらず、むしろ此処を発った時と変化が見えない。理由は分かっている、分かっているから腹立たしいのだ。綺礼は一つ、溜息をついて自室へと足を運んだ。彼はもう眠っているであろうから明日にでもきつく言い聞かせなければならない、それが億劫で仕方なかった。





随分と手の焼ける幼い同居人、――衛宮切嗣は言峰綺礼を苦手としている。初めて出会ったのは、死徒討伐で赴いたとある島の森の奥だった。喚き、叫ぶ人で在った者と、これから人でなくなる者。その中で一人、助けを乞う事も儘ならず絶望に震える少年に、その呪いを渡したのは綺礼だった。生きながらえた少年に、厄災の根源を断つようにと、何かあった時には己の身は守れと。だが綺礼とて知らなかったのだ、彼の父親がこの惨事の元凶である事を。そして、綺礼はその手から銃を離さず震える少年と対峙する。その死体を見た綺礼は感心と恐怖を覚えた。およそ衝動的ではなく、念入りに実父を殺して尚、ただ震えるだけの少年に、綺礼は少しの違和感を覚えた。
そのまま死体と共に教会へと引き連れられた切嗣は、綺礼の下へと引きとられる事が決定した。切嗣とて子ども、とは言え既に十は越えている。息子と言うよりは、兄弟という感覚の方が近かった。ただ、そんな生易しい関係などではなかった。三日が過ぎたころから綺礼は、人ではなく犬を拾ったと思うようにしていた。その方が何かと好都合だったのだ。

よほどショックだったのか、切嗣は生命活動を放棄しようとしていた。出した食事には手を付けず、水だけを飲み、ゆるゆると睡眠に耽る。まだ幼い彼が抱えるには重すぎた現実から逃れるように、目を背けるように切嗣は夢の世界へと落ちて行った。ただ、日に日に目に見えるように衰弱していく人間を目の前にするのは綺礼としてはあまり好ましい事ではなかったし、何よりも今の切嗣は空洞だった。切り離した物が修復できないように、ぽっかりと、穴が開いてしまったような彼を目の当たりにしていると、何故か綺礼は自分を見ているような気がして堪らない苛立ちを覚えていた。
後から調べてみれば、彼の父親の研究は綺礼にとっては嘆かわしい事であった。不老不死、そんな甘美な言葉だけからその研究を始めたわけではないのであろうが、信仰心の厚い綺礼には分からなかったのだ、何故そんなものになってまで。思考を巡らせてしまうのはきっと疲れているからだろう、自分に言い聞かせ、扉を開いた。何の事はない、このまま休息を取るだけだったのに。



「…………………これは、」



どうしたものか、その言葉は出てくることなく、消えた。綺礼の自室に構えるソファに、子どもが一人、丸くなって眠っていたのだ。それが先程まで思考を走らせていた同居人であれば、その驚愕も無理はない。何せ切嗣は綺礼を苦手としているのだ、いや、嫌われていると言っても過言ではないし、綺礼本人もそうであると自負している。そんな彼が何故此処で睡眠を取っているのかが、不思議で仕方なかった。



「…………うぅ、……ん……?」



もぞり、と丸まった子どもが動く。まだ微睡を彷徨う目に力がないのは寝起きであるからではない。生きることを放棄した切嗣はまるで人形のようだった。



「……………何をしている」

「あ、……」



勝手に部屋に侵入したことに対して罰が悪そうにもごもご、と口ごもり目を逸らす切嗣に、綺礼は更に顔を顰める。一人が心細かった事くらい、綺礼にだって理解は出来る。彼がどんなに自分の心を切り離せて、傍観に徹していられても、その実はまだ幼い少年なのだから仕方ない事だというのも理解しているというのに。ぐいっ、と腕を掴み、立ち上がらせる。掴んだ腕は細く、力を込めれば簡単に砕けそうで、更に綺礼の心を苛立たせた。



「どうせ、碌に食事を取っていないのだろう」

「…………」

「食事も取らずに人の部屋で惰眠を貪るとは、…………私は犬を引き取った覚えはないのだが」

「……っ」



掴んだ腕に僅かに力が籠められるのを、睨みつけているのであろうその視線に殺意とも取れる怒りが籠っている事を感じ、綺礼の口角が上がる。まだ彼には、蔑まれた事に対して怒るという、一端の人間の尊厳は保っているのだ。今はそれでいい、それだけでいい。綺礼はその掴んだ腕の体温と脈拍を感じながら、この人形のように機能しなくなった子どもがまだ人間であると感じとれた事に純粋な喜びを感じ、小さく、愛おしむ様に笑った。引きずられるように後を追う切嗣は知らない、その表情は、憐憫でも侮蔑でもない。まるで良く出来た、本物の聖職者のような表情だったという事に。









かなしいきみへ
(悲しい、愛しい君)