――冬木の災害
あの日から、切嗣に流れる時間は一気に緩やかになった。じわじわと蝕む聖杯の泥の影響もあったが、何よりも彼を取り巻く人間にあった。彼らは皆暖かく、無償に優しい。ぬるま湯のような空間は何よりも衛宮切嗣を魔術師殺しから遠ざけ、殺していった。ゆっくり、ゆっくりと切嗣は後退していく。しかしそれを全て受け止め、抗う事は考えなかった。一人娘を冬の城へ迎えに行くことを諦めた時から、切嗣にとって今この場所が全てで、最期だったのだから。きっと、衛宮切嗣の嘗てを知る人間が見たら目を疑う程にゆるゆると、それこそ草花が散り落ちていくように儚く衰退していったのだ。

息子が寝たことを確認してから、夜の住宅街を散歩するのは最近の日課だ。昼間は人通りが多いからか、切嗣にとっては出歩くには少しスピードが速すぎる。夜が満ちて、人が寝静まった方が時間は緩やかで丁度いい。これでは意味は違えど前線で活動していた時と変わりはなく、つくづく自分という人間の本質を考えてしまう所だ。

あの泥によって確実に蝕まれた身体は以前からは程遠く、視力は狙撃で酷使しすぎた為もあってか、ぼやけて顔を至近距離まで近づかなければ見れない程まで弱ってしまった。じーさんはロウガンなんだよ、と息子に言われた時の事を思い出す。手元のメモが見えづらくて読み上げて貰おうとしたが、漢字をまだ知らない幼い息子には読めない物だった。少し不貞腐れたように言ったのは、きっと悔しかったからだろう。切嗣自身老眼という歳にはまだ遠いが、小さな子供からしてみれば同じような物なのだから。
ふと、目の前に人の気配を感じる。気づいた時には遅く、躱しきれずに前からやってきた人にぶつかってしまった。



「――――ああ、申し訳ない、です…………?」

「随分と不用心だな、衛宮切嗣」



切嗣にとって眼鏡は未だに慣れず、長時間かければ疲れてしまう。気休め程度にしかならないものでもあったから必要に駆られなければ進んでかける事はしなかった。なので油断をすれば人や障害物に当たってしまう事は多々あった。
ぶつかってしまった相手に謝罪の言葉をかけると、相手は怒っているというよりは楽しそうに言葉を紡いだ。まるで切嗣を知っているようだった。そして何よりも低く、威圧感さえも感じるその声を切嗣は良く知っていた。だが、その声は随分と高い位置から聞こえた。切嗣の記憶が正しければ彼はもう少し、身長が低かったとも思われる。ただ数年前の記憶など存外に当てにはならないのだろうか、色々と考えを巡らせていると、顎を掴まれ、引き寄せられた。



「!、な、なにを……」

「もしや、本当に視えていないのか?」



声の主の言葉に切嗣は自分の記憶は正しく、恐らく一番会いたくない奴に会ってしまったのだと自分を恨んだ。数年前との違いは、その身長だろうか、それとも以前よりも言葉に込められた感情が見え隠れする所だろうか。どちらにしても切嗣にはどうでもいい、早く逃げなければ。聖杯を争った戦いが終わったとはいえ彼がどういった意図で自分に近づいて居るのかが不明瞭だった。出来れば上手く躱したい。だがしかし、抱きしめられるように引き寄せられている切嗣には抗う手立てがない。武器はもっておらず、身体能力も低下している、加えてこの弱視だ。この腕から逃げた所で、すぐに殺されるのは明確だ。



「いや、……僕の記憶が間違っているのかと思ってね」

「ほう?」

「そんなに高い所から声が聞こえるだなんて、思ってもなかったから」

「くくっ、数年も経てば人間は変わる」



あまりにも変わり過ぎではないのか、とも思ったが、それ以上の言葉を漏らすのはやめた。ただ少し、目の前の男が楽しそうに話すのを、その表情を見てみたかったと思った。彼はどんな風に笑うのか、少しだけ興味があったのだ。笑うというよりは嘲笑に近く、やはり外道には変わりないのか、と思いながらも精一杯綺礼を睨みつけた。
密着しているとはいえ身長に差が開きすぎているせいで切嗣からは綺礼を目視することが出来ない。だから切嗣は知らない。その表情があまりに柔らかく、愛しい物を慈しむような優しげな眼差しをしていたという事に。









視えない糸
(その意図は、)