黒い、黒い、真っ黒な感情。
こんな気持ちを向けられたのは特に始めてな訳じゃない。ただ、いつも俺は張本人ではないのに、息が詰まりそうで、色んな感情が込み上がってくる。これは罰なんだろうか、誰の、きっと名前も知らない誰かの。そして、俺の半身の兄貴の罪であり、罰だ。

頭を思いきり打ったからかぐらぐらするし呼吸がし辛い。いくらなんでも俺だって男だ。か弱い女子ではないし、それに今日はスーパーの特売だってある、早くしないと目当ての商品はなくなってしまう。声を上げてもがくしか出来ない自分が情けない、兄貴なら、きっとこんな状況でも余裕なんだろうか。一番近いのにどこまでも遠くて、僕には絶対になれない兄貴を思い浮かべる。そもそもこの事の発端は兄貴だっていうのに、やっぱり世界は理不尽じゃないか。



「お楽しみ中悪いけど声外まで漏れてる…………………って、………晶馬?」

「……あに、き」



あぁ、今日は間違いなく厄日だ。
マウントポジションを取られ、まさに殴られる直前、情けなくも泣き出した所を兄貴に見られるだなんて本当に、厄日としか言い様がない。
予期せぬ彼の怒りの張本人が登場した事に固まっている男の胸ぐらを兄貴は何も言わずに掴み、放り投げた。吃驚している暇なんてなかった、そのまま思いっきり殴り出したからだ。



「ちょ、兄貴! 何してんだよ!」



そもそも彼がこんな強行に出たのは兄貴のせいだっていうのにと文句を言いたかったけれど、言葉を失ってしまった。その表情からは感情が一切抜け落ちているみたいだったからだ。俺だって兄弟だから殴り合いの喧嘩は何度もしてきた。原因は些細な事だったけれど、怒りや悲しみ、何かしらの感情に任せて動いていたのに、今の兄貴からは全て抜け落ちて、ただ荒い呼吸を整えるように目の前の男を殴っている。



「兄貴、聞いてるのかよ! やりすぎだってば、兄貴…………冠葉!」

「……」

「まだ俺は殴られてもないし何もされてない、それにこの人は兄貴に――……」



彼女を取られたから、そう言い終わる前に帰るぞ、とだけ言われて腕を引かれる。少しだけ腑には落ちないけど、逆らえなかった。自分の兄が本気で怖いと思ったのはきっと始めてだったからだろうか。掴まれた手に込められた力は強かったけれど、それさえも言えないくらいに、冠葉は他を寄せ付けない獣のようだ。それに、もしこのまま手を振り切ったら、どこか遠くへ行ってしまうような気がしたのだ。漠然とだけど、はっきりと。










「だから兄貴! あの人に謝れよ?」

「は?」

「は? じゃないよ! あの人は兄貴に彼女を取られたから」

「それでお前を襲ってる時点でただの屑だろ、謝る価値はない」



結局一番目当ての品物は買えなかったようだけれど、それでも安売りの商品をカートに突っ込んでいく晶馬はさっきの事をあまり気にはしていないように見える。

馬鹿だと思う。
あんな状況下で殴られるとかそういう次元の話で済むと思っていただなんて、純情を通り越して本物の馬鹿でしかない。ただ、本当に馬鹿なのが誰かなんての、分かりきってはいる。
俺は結局、晶馬が許し続けてくれているのを知っているからそれに甘えている。彼奴の甘さを許してやる変わりに、彼奴の甘さに甘えて、そうやって、今までもこれからも過ごしてきたんだ。今更変わることは、きっと。










リトルバランサー
(俺の小さな世界の均衡)