結局、家に着いてからはずっと勉強をしていた。父が乱入するとちょっとばかり休憩して少しだけ遊んで、それから19時に夕飯を食べた。
夕飯は無難にピザをとったのだが、父はなんとも真剣に「手料理で出来る男アピールをすればいいのに」と真顔で俺に言った訳である。鬼柳はあんまり料理上手くないし、勉強出来ないと自分を卑下したばかりの彼の前でそれをするのは流石に躊躇った。鬼柳は女子でなければ恋人な訳もない。同性の友人に仕方なく身につけたこんなスキルを発揮させる必要もないだろう。…手料理でアピールしたら鬼柳が俺に惚れる、なら、まだしも。
「お風呂沸けたよ」
「父さんまた勝手にいじって…」
冷蔵庫もキッチンも勝手知ったるといじっていた父だったが、まさか風呂までいじるとは。いつの間にお湯張りを始めたのやら。しゃあしゃあと洗面所から帰って来る父に「ありがとう」と返して、広げた折り畳みテーブルの上に肘を着いてうんうんと唸っている鬼柳を見遣った。
「鬼柳」
「ん?」
「風呂、先に入るといい」
横に置いた扇風機に髪を靡かれながら鬼柳は顔を上げる。今の今までテーブル上のノートにあった目には疲れが滲んでいた。
赤点を取りそうになってしまったテストの内容を復習し、同じような内容のテストを簡易に作ってやってもらった所、何時間もの勉強の末に平均点を取れるようになった。これはとてもすごい進歩で、鬼柳も喜んでいた。
そして今はもう少し点数上がるんじゃないかという鬼柳の頑張りで勉強を進めているところである。時計の短い針は10を指していた。
「暑くて入りたくないかもしれないけれど、同じ体制で体こってるだろうから、お湯につかるといいよ」
「わわ、すいません」
入浴剤も入れといたから、と、父は笑顔で言う。……入浴剤なんてこの家にあっただろうか。まさか持ち込んだのだろうか。
じゃあお先に、と、テーブル上に小さく教科書やプリントやノートを纏めて鬼柳は出してあったパジャマを持って洗面所へ向かった。
「ああ、鬼柳君、タオルは出しといたから」
ぱたぱたと音をたてて洗面所へ向かう父を見送り、仕事の早い人だとぼんやり考える。昨日来たばかりなのにこの部屋の構造を理解し過ぎだろう。だがそれがなんとも父らしく、なんだか安心する。
テーブル上に散らばった小さな消しゴムのカスを指先で取り、横に置いたごみ箱へ入れた。鬼柳のシャーペンを持ち上げ、芯が今出してある一本しか入っていないと気付いてケースから芯を取り出して入れる。模擬の形で簡易のテストはしたし、さて何をしようかと胡座をかいていた足を伸ばした。
「遊星」
「…父さん」
ぱたぱたと再び足音を立てて父が帰って来る。石鹸と業務用のリンスインシャンプーの位置、それからシャワーの出し方とゆっくり風呂に入るといいという旨を説明したと父は言い、そして俺の隣に座った。
鬼柳はまだ勉強するつもりだろうか。一般学生が寝るにはちょうど良い時間なのだし、なんならもうテーブルやらを片付けてしまって布団を出しておこうか。考えながらも楽しそうに笑う父が視界に入って、何か嫌な予感がする。
何か、妙な事を考えている時の顔だ。
「一緒に入って来たらどうだい?」
「…………父さん」
予想は的中だ。自分は今心底呆れた顔をしているだろう。げんなりとしている自覚はいる、もう、父さんと呟いて咎める事しか出来やしない。しかし父は依然としてにこにこといつもの笑みでいた。
からかいと本気が半々と言ったところだろうか。まったく、と、こちらも少し笑みが浮かんでしまう。
「じゃあ父さんがお邪魔してくるから」
「………は?」
これはまたなんとも素っ頓狂な声が出た。
今なんて、と聞き返す前に父は立ち上がって再び洗面所に向かっている。止める暇のないその素早い行動に暫くぽかんとして、洗面所に入って父の姿が見えなくなってから漸く、それはまさかと立ち上がって洗面所に向かった。
「父さ」
ん、と、言おうとした唇が開いたまま止まる。風呂場の扉を半開きにして父は風呂場へ顔を突っ込んでいた。
「あ、本当?ありがとう!」
なにをと咎める為にあげた右手が動かせない。風呂場から顔を戻し、父は扉を閉める。そして自らの衣服に手をかけ始めたので、本当になんとも嫌な予感がしてしかたない。まさかという言葉がぐるぐると頭に回る。
「…父さん?」
「わっ、なんだ遊星いきなり。父さん脱いじゃうから見ないでよ」
まだ脱ぎ始めてすらいないくせにいやーんと胸元を隠す父になんと声を掛ければいいのか。言葉を探っていると、察した父が(いや、多分からかってるだけで分かってるんだろう)ああと笑って説明をした。
「鬼柳君、一緒に入るのいいってさ」
びしっとピースしてみせる父に言葉を失う。ああやはりそうなのか。
いや鬼柳もそりゃああの性格から、友人の父に言われたその誘いを断るなんてない選択肢なのだろう。きっと年頃の女性以外となら誰とでも一緒に入ろうという誘いをオーケーする筈だ。鬼柳はそういう人間である、初対面でも下手すればオーケーするだろう。
ああ、父もそういえば初対面だったか。流石鬼柳だと言うべきか、なんというか。
「………羨ましい」
「なに小さい声で言ってるんだい。だったら父さんやめようか?遊星が入ったら?」
「……いや、いい」
きっと耐え切れないだろうからと風呂場にいる鬼柳に聞こえないよう小さく言って、俺は洗面所から出た。父はきさくな人だし、鬼柳もそんな気にならずにオーケーしたのだろうな。もし俺が言ったのだったら鬼柳は「遊星がそんな事言うの珍しいな」と言っただろう、俺自身そう思うのだから。
鬼柳と一緒に風呂に入ったら………
「………やめておこう…」
考えるだけでなんとも情けない自分が浮かぶ。本当に、きっと耐え切れない、その一言が合う。きっと耐え切れないだろう。
ぶんぶんと頭を振って落ち着かせ、今出て来たばかりの洗面所の扉を二回だけノックする。
「父さん、着替えは後で持って来ておくから」
「わーありがとー」
間の抜けた返事を聞いて、そのままリビングに入った。
先日からこの家に居る父は手ぶらで来た為に、俺の服を借りていた。と言っても、先月駅前のスーパーを中心とする街ぐるみで行われた抽選会で当てた、ティッシュより上で電動自転車より下の位にあった某メーカーのTシャツ10組というそれを、父に提供しているまでである。
それなりに洒落た模様が描かれているシャツだが、学生でありながらも着こなしやらに興味のない自分はあまり着る機会がなく、景品らしく包まれたまま棚に押し込んであった。それを父が楽しんで着てくれていてなによりである。
今日はこれがいいと確か言っていた筈だと思い出し、白地に青い模様の入ったそれと中学の時に使っていたジャージ(膝より下の微妙な長さで不評だった代物だ)を手に取り再び洗面所に向かう。
扉を小さくノックしてみるが返事はない。もう浴室に入ったのだろうと考え扉を開けば、案の定そこには誰もいない。綺麗に畳まれた父の衣服と鬼柳の衣服が並んで薄い脱衣カゴの上に置かれている。バスタオルは一応一枚ずつが良いだろうと鬼柳用にと出されているタオルの横に棚から新しいタオルを出し、ああ確実に洗濯物が増えるなとなんともなしに考えた。
思い出したようにタオルの下に父の寝巻を置いて、風呂場の扉をとすとすとノックする。
「父さん、着替え置いておいたから」
「あーありがとー遊星ー」
間の抜けた父の返事とぱしゃぱしゃという水の跳ねる音がした。なんとなく位置関係は把握出来る。声からして父は今扉の前の辺りで髪でも洗っているんだろう、とすると鬼柳は浴槽か。……。
「なあなあ遊星も入るか?」
「………狭い、から、いい。ありがとうな」
鬼柳の誘いにびくっとしながら、なんとか冷静に返す。くつくつと父が肩を揺らして笑うのが扉に付いた曇り硝子越しながらなんとなく伺えて、なんとも居心地が悪い。さっさと用を済ませてしまおう。
「鬼柳どうする、風呂から上がったら寝るか?」
「あ、どしよ。遊星は眠いか?」
正直遊星がいなきゃ勉強出来ないから、遊星次第で。鬼柳はんーと唸りながらそう言った。自分としては夜更かしは当然な行為で、睡眠は実際4時間か5時間あれば良い方なくらいで低血圧の雰囲気を感じた事すらない。完徹でも平気なくらいだが、だが鬼柳は違うだろう。
「少しだけ眠いな」
「じゃあ俺、上がったら寝ようかな」
「分かった。布団を敷いておくな」
「あーごめん、あんがとな」
要はこの向かい側の浴槽に鬼柳が居るが裸ではないと思えば良い訳である。話が終わりに近付く程にその解決策は考えられていった。
どういたしましてと返してなんとか洗面所から出て、息をつく。意識しないようにと考えながらも結局色々考えてしまった。鬼柳は今、俺の家の浴室の浴槽に……いやもう止めよう。
修学旅行、大浴場で鬼柳の裸を見てしまうと、しまえると思ったが運命はそう甘くなかった。俺はなんと班の保健係で更に保健係の係長とかいう面倒な役回りだったので役割を終えるのに時間がかかり、修学旅行中は毎回入浴時間が所定よりずれたのだ。生徒達の後に入る教師達と一緒に入る羽目になり、なんだか居心地が悪かったのをよく覚えている。
まあ結局鬼柳の裸は見れませんでしたよ、という話だ。
…いやもう風呂の話は忘れよう。頷きながら部屋に入り、テーブル上の教材を纏めて部屋の隅へ置いた。その横に鬼柳のリュックを置いて、テーブルを畳んでリビングへ運ぶ。ソファの後ろへしまうように入れて、それから部屋に戻って大きめのクローゼット下段から布団を取り出した。
父は何故か何組も俺に布団を持たせているのだが、その謎の行動は今回かなり良い方向へ生かされた訳である。二組の布団をベッドの横に敷いてしまうと足の踏み場を少し確保出来るくらいで、どうにも窮屈だ。
誰か一人だけリビングに行くというのも変な話である。俺一人で行ってはおかしいし、だが父も鬼柳も一人で寝かす訳にもいかないだろう。
まああの父と鬼柳だ、きっと窮屈でも楽しそうだから良いと笑ってくれるだろう。
タオルケットを2つ、クッションに近い枕も2つクローゼットから取り出して布団の上へぽいぽいと置いて、隅に寄せておいた扇風機を扉近くの布団の足元へ置いた。首ふりで4時間タイマーにしておこう。ぴっともぷっとも取れる、なんだか間抜けな音が鳴る。
…さて。
(…まあ父さんがベッドだろうな)
父からすれば客人である鬼柳にベッドを、鬼柳からすれば年上である父にベッドを、だろう。そうすると俺も鬼柳に賛成だ。
初日に父とベッドと敷布団を交代で使うと約束して、昨日は俺がベッドを使っとしまったからという少しの罪悪感もある。
なので父にベッドを譲るとして、その、鬼柳と隣、というのは。少し心臓に悪い。
修学旅行の時は、それを察したクロウが布団を敷く並びをオカンスキルで決めてくれたのだった。俺達に割り当てられたのは5人部屋で、布団を敷くなら三人が縦並びで二人が三人の頭の上に横向きで敷くという形である。そうすると各々それなりにゆったりと寝れるという訳だ。
三人の並びの端と端に俺と鬼柳、真ん中にブルーノ。二人の並びにクロウとジャックという形だ。身長的にもこれが一番だろうとクロウは言っていた。
お陰で真横に鬼柳がいない事で安眠出来た訳だが、ブルーノを挟んで向こう側にいる鬼柳はなんだか遠く見えて寂しかった。ただそれをクロウに言ったら、なんなんだよと頭を叩かれたが。…仕方ないか。
十数分後、俺も鬼柳達が出たら風呂に入るかと着替えを用意してコップなんかの洗い物をして待っていたら、父が早くにあがって来た。
先に入ったのは鬼柳なのになとリビングの椅子に座る父を見て、広くも狭くもないキッチンから顔を出す。
「父さん、早いんだな」
「お風呂つからなかったからね」
「……」
入浴剤まで持ち込んだのに入らなかったのか。あまり広くないが二人で入れそうな浴槽なのに、とまで考えて父と鬼柳が浴槽に詰まる様子を考えると流石に暑そうで仕方なかった。
首にバスタオルを掛けている父は先程出した寝巻を着ている。俺より背丈が高いくらいの父の体格はやはり支障無く服を着れていた。
「それはそうと遊星に良い報告だよ!」
「?」
わぁと両手をあげて喜んで見せる父に、意味がわからず首を傾げる。まあ話があるならと掛けてあるハンドタオルで手を拭い、キッチンから顔だけでなく体全体を覗かせた。
しかしたった今風呂から出た父が自分になにを知らせるというのか。…何か嫌な予感がする。
「綺麗な薄ピンク色だったよ」
「……父さんまさか」
「鬼柳君のちく」
び、と、言い切る前に父の口元を掴むに近い形で塞いだ。もがもがと唸る父をよそにぐるぐる頭に回る雑念を振り払おうと俺は必死である。ぶんぶんと頭を振った。なんという報告をするんだこの父は。それを息子に聞かせて何がしたいんだ、いやまあからかいたいんだろうけれど。
口には出さなかったがなんだか感じ取ったらしい父は口元を塞がれながらもぐぐもった声で「ごめんよ」と笑う。掌に息が当たって擽ったい。反省しているようだと伺って、そろそろと掌を離した。
「ただ、父さんは母さんに片思いしていた時に知れるのだったら、まあ…何色か知りたかったし…それなら遊星もかなぁと思ってね」
「…父さん…」
離したのは間違いだったらしい。キリッとした顔で言う父にもうなんて返せばいいのかもわからない。思わず溜息を吐き出してしまう。
内容はなんであっても、まあ一応父の愛情なのだから「…ありがとう」と小さく返した。嬉しそうに頷く父を見ては、ああまた何かしそうだなと思えてしまって仕方ない。
「あ、布団だー」
たたたと椅子から立ち上がってリビングを出る父を見て、肩を落とす。
薄ピンク、と、頭に浮かんだ単語をどうにか忘れようと努めた。ああもうと小さく呟くがどうにも上手くいかない。
鬼柳は大切な親友で、片思いしてしまっている事はあまり誉められた事じゃあない。だから、あまりそういう目では見たくない。…とはまあ綺麗事か。
「遊星」
「?」
リビングへひょっこりと顔を出す父と目が合う。手招きをされて、今度はなんだとついつい苦笑してしまう。
布団の敷いてある自室は小さめの引き戸が扉になっていて、開いておけば涼しく風が通るようになっていた。そこを大きく開けて、自室に入る。少し入れば足元にはすぐに布団が敷いてある訳だ。
部屋に入ると、父はベッドに腰掛ける。
「ああ、父さんはベッドで寝てくれ」
「ありがとう」
呼んだのは寝床の確認の為だろうか。しかし父は俺の顔をじっと見て、再び名前を呼んだ。
「父さん?」
「目一杯、鬼柳君と仲良くしてあげてね」
「?」
いきなり何を、と、言う前に父はベッドにねっころがる。そしてタオルケットをばっと広げて寝に入ってしまった。
「父さん?」
「鬼柳君は遊星達がとても好きで、とても大事なんだ。だから」
俺とは反対側に向けられた父の顔は見えない。頭にバスタオルを引っ掛けたまま父は寝ようとしている。だらし無い。
……まあそれはいい。父は風呂場で鬼柳と何を話したんだろう。何か大事な話をしたのだろう、俺に直接言えないような。
「……俺は鬼柳に恋しているが、それ以前に親友だ」
「……うん」
もぞもぞとしたまま、父はこちらを振り返る事はなかった。本当に寝てしまったようなので、電気を消す。リビングの電気は点けたままで大丈夫だろう。
そういえば父は夜中に此処に訪れて、朝早くに起きたのだった。仕事明けで体は疲れきっていた筈である。
だがあまりにも早い睡眠だな、と、なんだか笑みが零れた。
「なんか長風呂しちまった、ごめんなー」
「いや、構わないさ」
暑い時に長風呂すると逆に涼しいな、と、鬼柳はラフなTシャツに中学時のジャージズボンという、まさしく父と同じスタイルの寝巻でバスタオルで頭を拭っている。
「ごめ、喉渇いたかも。水貰うな?」
「ああ、水の出し方はわかるか?」
「大丈夫大丈夫」
ぱたぱたと鬼柳はキッチンに入って行った。妙な浄水器が後付けされた水道の為、使用が面倒になっている。様子を見に行こうとしたが、なんら支障なく水の出る音が聞こえたので大丈夫かと足を止めた。
…父の言葉は気になったが、鬼柳はなんらいつも通りである。安心したいが、だが鬼柳はいつもそうだ。体育の時間に怪我をした時も、笑顔だった。熱出したと聞いて見舞いに行った時もそうだ。何かある時と普段の差がわかりやしない。わかりたいのだが。
「それじゃあ、俺は風呂に入るが…鬼柳は先に寝ていてくれ」
「あ、悪ィな」
「敷布団で大丈夫か?」
「うん。あ、遊星のお父さんもう寝てるのか…」
コップ片手に布団の敷いてある部屋を覗き、鬼柳は声量を小さくする。立ちながらコップに入った水道水を飲み込み、鬼柳はなんとなく俺を見た。俺はといえばずっと鬼柳を見ていたので、目が合ってしまう。
「?風呂行かないのか?」
コップに口元を付けたまま鬼柳は首を傾げた。俺は返答としては不自然なああと言う返事をして、リビングから出る。…変な奴と思われただろうか。考えながら洗面所に入り、扉を閉めた。
*
まだ続きます…予定より長くなってしまいました…orz
|