ドラマチック・イエロー
目を開けるとそこにはヒゲがあった。
「きゃっ?!」
「うおっ!」
この奇妙な事件の数秒前、私は夢を見ていた。
あの日はひどく蒸し暑い夜だった。あまりの暑さに我慢できなかった私は、近所のコンビニまでアイスを買いに出た。もう夜だというのに、湿気を含んだむわっとした空気が全身を包み、早く家に帰ってクーラーの恩恵にあずかりたいと歩みを早めていた時だった。
両側に土手を挟むこの一本道は、コンビニまでの近道であり、このあたりにはうちの高校の野球部専用グラウンドやその寮がある。
私がコンビニのビニール袋をカサカサいわせながら、寮のそばを通った時だった。
ーービュン
一瞬空耳かと思ったけれど、寮の方からかすかに物音がした。
何の音だろう?
私は正直なところ、この時まで野球部に何の興味もなかった。後にクラスメイトの沢村くんから聞いて、ここが「青心寮」という名だと知ったくらいだ。だから普段の私ならこんな物音なんか気にせず通り過ぎて、とっとと冷房の効いた快適空間に身を置いているはずだった。けれどこの時は、暑さで頭が通常の働きをしなかったのか、私はキョロキョロと周りの様子をうかがって音の正体を探した。
ーービュン
空気を素早く切り裂くような鋭い音。
土手の方に視線を向けた時、すぐにその正体がわかった。本当に私のすぐ近く、私の目線の下の寮の裏手で、一人の男子が素振りをしていた。
ビュンと勢いよくバッドを振る。それと同時に左足を踏み出し、振り切る。はぁと息を吐き出しこころもち弛緩したあと、また足を戻して最初の姿勢に戻り、再び同じ動作を繰り返す。
これ、素振りの音だったんだ。
暗くて顔がはっきり見えないけれど、全てを射抜くような強い目が印象的だった。
ーービュン
なぜだか私はその姿から目がはなせなくなり、しばらくの間その場に突っ立ってその人を眺めていた。手に持ったビニール袋の中のアイスが気になったが、自分の足が地面に固定されたみたいに、どうしてもそこから動くことができない。
ーートクン、トクン
また、もう一つ耳慣れない音がして私はあたりを見回した。
今度はなんの音だろう。
その人がビュンとバッドを振るごとに、そのトクントクンは鳴る。なんとなく息苦しさを感じて、二酸化炭素を吐き出し、ゆっくりと酸素を吸う。すると、ようやくその音は、自分から発せられたものだと気がついた。しかもその音は次第に感覚が短くなり、徐々に胸が苦しくなっていく。たった一つの私の心臓が強引に誰かに奪われて、自分の意思とは関係なしに動かされているみたいだった。
ただただ孤独にバッドを振り続けるその姿は、私の心に強烈に焼きついてはなれなかった。コンビニで買ったソーダアイスはぐちゃぐちゃに溶けてしまっていて、もう食べることはできなかった。
ぐちゃぐちゃの涼しげなブルーに白い雲が浮かんだ。
今度はなぜか私は、昼間の野球部のグラウンドのそばに立っていた。
「だらっしゃーー!!」
炎天下のグラウンドには、怖い顔で豪快に吠えてバッドを振るあの人。なんだかとても乱暴な感じ。
あれ、あの人こんな人だったっけ? なんか思ってたイメージとずいぶん違う。
「オラーー!!」
また大声をあげたプレイが続く。外野からとばす突然のヤジの数々。そのたびに私の肩はビクリと震える。
違う。あの人はもっと寡黙な人だと思ってた。私はどちらかといえばそういう人が理想だった。きっとあの時は暑さでおかしくなってたんだ。
そう、違う。ちがうちがう、これはあの人じゃない、私はーー
目を開けるとそこにはヒゲがあった。
ヒゲから視線をゆっくり上へ持ち上げる。すると、私の視線とその鋭い視線がカチリと重なった。
「きゃ?!」
「うおっ!」
私があまりの事態にびっくりして思いきり上体を起こした時、額にガツンと激痛が走った。私のその勢いに吹き飛ばされたかのようにそばにいたその人が小さくうずくまる。
「うおおおぉ......」
丸めたその背中からは地獄の底を這うようなくぐもった声がもれ、私は心底恐怖に震えた。
「あ、あの、大丈夫です、か......?」
私はおそるおそるその人の様子をうかがった。と、同時に、今私が置かれている状況に次第に理解が追いついてきた。
私はベッドの上で寝ていた。あまりお世話にならないけれど、見慣れたその部屋のレイアウトは間違いなく学校の保健室だった。制服姿でベッドのそばのパイプイスに座ってうずくまるその人。顔は見えないけれど、たぶん夢に出てきたあの人だ。
冷静になって一連の行動を振り返ってみる。先ほど私が勢いよく起きあがったせいで、私の額とすぐそばでうずくまるこの人物ーー確か三年の伊佐敷先輩というーーの、ヒゲ、もとい顎に私が頭突きを食らわす形になったのだ。額と顎なら、おそらく顎の方がダメージが大きいだろう。
「あ、あの......ほんとすいません。もうなんて言っていいのか......」
「お、おぉ......」
徐々に冷静になっていく頭に、先日この人が後輩にベッドロックという締め技をかけていた姿が思い出された。クーラーによって保たれた室内のキンとした涼しい空気とあいまって、私の背筋がぞわりとした。私もあれの餌食になるんだろうか。あそこまでいかなくとも、盛大に怒鳴られることは目に見えていた。もうひたすら謝罪するしかない。
「すいません、すいません」
「気にすんな......。大丈夫だ」
「は、はぁ......」
私の今の顔色はソーダアイスよろしく真っ青だろう。
伊佐敷先輩はのっそりと顔を上げた。まだ痛む顎には右手が添えられている。三白眼の鋭い目が私をギンと捉え、私は喉の上までせり上がった、ひぃ、という悲鳴を懸命に飲みこんだ。
「お前はデコ大丈夫か?」
「え? は、はい。大丈夫です、石頭なもんで」
「ぶっ、石頭って自分で言うなよっててて痛ぇ......」
「すいませんすいません!」
「......謝んな。笑ったからちょっと痛んだだけだ」
どうやら恐怖の仕打ちからは免れたようで、私はほっと胸を撫で下ろした。
「つーか体の方は大丈夫か?」
「からだ?」
「ボケてんじゃねーよ! お前さっき熱中症でぶっ倒れたんだろーが!」
「あ、ああ......」
そうだ、やっとこの一連の奇妙な出来事の発端を思い出した。
お昼休み、私は沢村くんに伊佐敷先輩を呼び出してもらって、あるものを渡そうと中庭で待っていたのだ。けれど、連日の暑さと緊張で先輩を待っている間に気分が悪くなり、先輩の姿が見えた瞬間、頭がぐるぐるとまわりだしてその場に崩れおちたんだ。
幸い中庭から保健室は近く、私は先輩の肩を借りてここまで辿り着いたのだった。
言われてみれば、私の額と首の後ろにはご丁寧に冷却シートが貼られていた。どうやら私は、この先輩によって手厚い看護を受けたらしい。
「オラ、アクエリもっと飲んどけ」
「は、はい」
サイドテーブルには飲みかけのアクエリアスのペットボトルがあった。そういえば眠る前、私はこれを飲んだんだ。私はすすめられるままそれを取りごくりと口に含む。
「げほっごほっ」
「おい、もっとゆっくり飲め」
「は、はい」
むせる私の背中を、ばしばし大きな手で叩いてくれるが若干痛い。けれどその手からは不器用な優しさが伝わってきた。
私は手に持った冷たいペットボトルをぼんやり見つめながら、突然のことに戸惑っていた。なぜなら私は、この伊佐敷先輩とまともに話すのがこれが初めてだったからだ。
あの夜の自分自身の謎の動悸に混乱していた私は、親友の友ちゃんに相談を持ちかけた。
「なまえ、それはね、恋の病だよ」
「こい?」
「しかも“一目惚れ”という名の突発性の!」
「ひ、ひとめぼれ......」
一目惚れなんてマンガやドラマの世界だけの話だと思っていた。
「奥手ななまえにもついに好きな人が!」
行動派の友ちゃんに背中を押され、事態はとんとん拍子に進み、私は野球部の見学に行った。
けれど、初めて日の光の下で見る伊佐敷先輩は、なんというか想像していたイメージとは少し違った。大声で怒鳴る姿は、私に乱暴なイメージを植えつけた。
なんか違うかも。
が、餅は餅屋ということで、友ちゃんは野球部の沢村くんにもこのことを話してしまった。二人の私を応援するという純粋な気持ちに水をさすようで、私は「なんか違うかも」という本音を言い出せずに今日に至った。全ては私の気の弱さが招いたことだった。
目の前の伊佐敷先輩はまだ先ほどのキズが痛むのか、しきりに顎をさすっていた。
「あの、湿布貼ったらどうですか?」
「そうだな。そうすっか」
私が湿布を探すためベッドを出ようとすると、まだ寝とけ、と制して棚をゴソゴソとあさりはじめた。目当てのものを見つけ、再びパイプイスに腰かける。先輩は湿布を手に取り、顎に貼ろうと試みるが、不器用なのか湿布の粘着部分同士がひっついてしまい失敗に終わった。
「チッ」
「あ、あの、私貼りましょうか?」
「あ? んじゃあ頼むわ」
私は先輩から湿布を受け取り、湿布の半分をぺりとはがして顔を上げた。そこには当然、伊佐敷先輩の怖い顔。
「............」
「んだよ?」
「なんでも、ないです」
よく日に焼けた顎に、左手をそっと添える。すると、指先に少しチクリとした感覚。たぶん剃り残した短いヒゲだ。指先から伝わる男の人の未知なる感覚に、次第に私の鼓動が激しくなる。
「......おい」
目が早くしろと言っている。男らしくたくましい頬に、ほんのり赤みがさしはじめる。
私はこくんとうなずいて素早く湿布を貼った。
「悪りぃな......」
「いえ......」
なんで先輩も照れてるんだろう。なんか不覚にもかわいいと思ってしまった。
「あ」
「んだよ」
「......今気づいたんですけど、湿布はがす時痛いですよね、ヒゲ」
「あ」
今度は先輩がマヌケな声を出した。それから、だー、くっそ、と言って頭を抱える。その様子を見ながら、私は最初の緊張がずいぶんと和らいでいるのを感じていた。
「ぷっ」
「ああ?」
「すいません。なんか伊佐敷先輩ってもっと怖い感じの人かと思ってました」
「あ? まぁそれはよく言われっけど」
私から視線を外してふいと横を向く。
想像していた寡黙な雰囲気とは違うけれど、意外に話しやすく親しみやすい人だと思った。
「あ、そういえばさっきなんで私の顔のぞきこんでたんですか?」
「あっあれは」
先ほどの熱が戻ってきたのか、先輩の顔が再び赤く染まる。
「お前が『ちがう〜』つってうめいてたからだろーが」
「ああ、そうでしたか......」
今度は私が赤くなる番だった。
「そういやお前、名前なんつぅんだ?」
「わ、私はみょうじなまえといいます。一年です」
「はーん、みょうじね」
先輩はまた顎をさすった。
「あの、ありがとうございました」
「おお」
つかの間、沈黙がおりる。わずかなクーラーの音だけが響くお昼休みの静かな保健室。
なんだか先輩ともっと話してみたくなった。けれど、共通の話題なんて思い浮かばない。
「......先輩は、理想と現実のギャップを感じた時、どうしますか?」
どこか非日常な雰囲気に流されたせいか、自然と言葉が口をついて出てしまい、はっと我に返った。こんな初対面の後輩に人生相談じみたことを言われたって戸惑うだけだろう。
曖昧にぼかした私の相談に、先輩は一瞬怪訝な表情を浮かべた。
「は? 理想と現実のギャップだぁ?」
「すいません、ヘンなこと聞きました。忘れてください」
けれど先輩は、フンと鼻をならしたあと当然のように言い放った。
「そんなの決まってんだろ。できることをひたすらやるだけだろーが」
「............」
「なにポカンとしてんだよ」
私はむすりとした先輩の顔をただ眺め続けた。
その瞬間。どこかで音が聞こえた気がした。
どうしたんだろ。気のせいかな。
その時私は、サイドテーブルにあったそれの存在に今更ながら気がついた。先輩が一緒に持ってきてくれたんだろう。
もうどうにでもなれ。
「あ、あの、これ渡そうと思ってたんです」
この日のために用意した、洒落たデザインの紙袋を引き寄せ、中身のタッパーを取り出す。
「レモンの蜂蜜漬け?」
「そうです。よかったらどうぞ」
「ふーん」
これは友ちゃんと沢村くんのアドバイスによるものであり、私はかなり複雑な思いでレシピを睨みながらこしらえた。思い人でない人物のために作るのはひどく骨が折れた。けれど、一応人に食べさせるものだから丁寧に作ったつもりだ。
先輩はその場でタッパーのフタを開け、一つつまんで口の中へ放り込む。そのままもぐもぐと豪快に頬を動かしていた。
「ど、どうですか?」
「あー、食えねぇことはねーけど、まだちょっと酸っぱいな」
「そう、ですか......」
自分のいい加減な気持ちを見透かされた気がして、私は気まずくなり下を向いた。
「マネージャーのが美味ぇ」
「そ、そりゃそうですよ。偉大なるマネージャーさんの仕事には敵いませんよ」
同じクラスの吉川さんがマネージャー業に一生懸命なのは私も知っていた。そんな人たちに私の付け焼き刃など敵うわけがない。
けれど伊佐敷先輩はニッと笑ってこちらを見た。
「ちゃんとわかってんじゃねーか」
「え?」
「なんでも自分の力量認められねぇ奴は成長できねぇってこと。理想と現実を埋める一歩だろ。ま、お前が何に悩んでるかなんて知んねぇけど」
「............」
先輩は酸っぱいとは言いながらも、もう一つレモンを取りもぐもぐと食べていた。私はその顔をただぼうっと眺める。
やっぱり、やっぱり先輩は誠実な人だと思った。私があの夜目撃した姿は嘘じゃなかった。
ーートクントクン
確かに聞こえた。あの時と同じ音。やっぱりあの鼓動は間違いじゃなかった。
私はぱっと顔を上げて伊佐敷先輩の顔をまっすぐ見つめた。その顔に、確かにあの夜に見た姿が、印象が重なる。もう怖いなんてこれっぽっちも思わなかった。
「伊佐敷先輩。今度はもっとうまく作ってくるんで、また食べてもらってもいいですか?」
私の勢いに一瞬虚をつかれた顔をした先輩は、けれどすぐさま歯を見せた。
「ああ、いいぜ。いくらでも食ってやるから持ってこい、みょうじ」
子供みたいに笑う伊佐敷先輩にまた新たな一面を発見し、更に鼓動が大きく早くなる。トクントクントクン。
まだ目覚めたばかりのこの気持ち、もっともっと甘くなれ。