distance
「みゆき」と聞いて思わず振り返ってしまうのは、三年前からの癖みたいなものだった。けれど私がほんの僅かな期待を込めて振り返る度に、大抵それは「美由紀」ちゃんだったり「美雪」ちゃんだったりする。私が心の奥底で密やかに追い求めていた彼は、いつもそこにはいなかった。
視界が霞むように白い。入学式にはおあつらえむきの満開の桜。雪のように大量に舞い散る桜が少し鬱陶しくて、私はふわりとなびく髪を押さえながら校舎へと続く道を急いでいた。早歩きしながら真新しいブレザーに付いた花弁をさっと振り払う。
「みゆき!」
その時、私の背中に男子の声が響いた。またかと溜め息をひとつ。早く校舎に入りたかったのに、またしても私は振り返ってしまうのだろう。分かっているはずなのに。
私は微塵も期待することなく、のっそりと体を反転させた。桜の花弁で視界が白っぽく霞む視界の先に、背の高い男子の後ろ姿があった。隣に立つ、髪を逆立てた不良っぽい男子と何やら話し込んでいる。
その時、背の高い彼の立ち位置を僅かに変わり、私はその横顔を垣間見た。茶色っぽい髪と、しっかりした黒のフレームの眼鏡。私の知っている「みゆき」の条件を限りなくクリアしていたけれど、決定的に違うところが一つだけあった。
身長だ。一目見ただけで違うと決定付けた。
微かな落胆を感じながら、見るともなしにその姿を眺めていると、すらりとした長身の彼が、ゆっくりとした動作でこちらを向いた。長めの前髪を掻き分けた先、透明のレンズの奥の双眸、その揺るぎない瞳。
ーーああ、あの瞳は
その瞳に衝突した瞬間、私の記憶は濁流に飲み込まれるように三年前のあの日へと巻き戻されてゆく。
“江戸川の御幸”は、小柄だけれど気が強くて頭の切れるキャッチャーだった。小学六年生までリトルで野球をしていた私は、その練習試合で初めて彼と出会った。敵チームの私に奴は気軽に話しかけてきたのだ。
「なー、ここってトイレどこ?」
初めて会った時の印象は「生意気そう」。小柄な体躯で、背の高い私を対等であるかのように見上げてくる。たぶんその差は十センチくらいだろう。何かこだわりがあるのか、奴は帽子のつばを横にした被り方をしていた。
「あっち」
と呟いて私はトイレの方角を指した。
「げ、結構遠いじゃん」
「じゃあ立ちションでもすれば」
低い位置からの好奇心旺盛な目が私を捉える。
「お前も立ちション派?」
「............」
「あっ! 何すんだよ!」
私は奴の帽子を上からひょいと奪ってやった。確かに髪の短かった私は、時々男子に間違えられる事があったけれど、こいつから言われるとものすごく気に食わない。
次に会った時は私の身長のことを言われた。
「お前こないだの!」
「ああ、帽子のチビ」
「チビって言うな!」
「じゃあ小人?」
奴は唇を尖らせながら私を見上げた。
「......つーかお前女だったんだな」
「そうだけど」
「スゲーでけぇな!」
そう言って奴はニィっと歯を見せた。私はよく男子からデカイとからかわれることは多かったけれど、御幸からはなぜかその類いの馬鹿にしたようなニュアンスが感じられなかった。初めて動物園に行った子供がゾウを見て「でけぇ」と言うような、そんな原始的な驚き。
「自分だってチビのくせに」
「俺は伸びしろがあんだよ!」
「それがちゃんと伸びなきゃ意味ないけどね」
私たちは会えば軽口を交わしあうような関係だった。仲は、良かったと思う。
ただ、会話をしている時の御幸は生意気で口が達者な奴だったけれど、マスクを被るとその雰囲気は豹変した。子供っぽくくるくると変化する瞳は聡明な色に変わり、まるで大人のような顔でリードしながら確実にアウトを物にしてゆく。その様子がまるで別人みたいで、私はしばしば戸惑うことがあった。
ーー私はあの瞳が
私があの瞳とぶつかったのは、おおよそ三年ぶりだった。
「みょうじ?」
信じられない事に、彼の低い声が私の名を紡いだ。口調にほんの僅か懐かしさがある。どこか非現実的な桜吹雪のせいかもしれない。私はその瞳から目を逸らす事ができず、しばらく彼をぼうっと眺めてしまった。
「......御幸?」
*
夢をみた。
リトル最後の試合。九回裏3-2、ツーアウト三塁、一打逆転サヨナラのチャンス。打席には4番、ランナーは私。緊張で息が苦しかったけれど、金属音がしてボールが飛んだ瞬間私は走り出していた。視界の端でセンターがボールを掴んだあと、セカンドが中継に入ったのを捉える。ホームには、御幸。
「ぶっ飛ばせる」いや、正確には「ぶっ飛ばしても構わない」
ホームへ急ぐ私はそんな事を考えていた。現に練習試合の時私は、体格差のある御幸に当たり負けした事はなかったのだ。そう、狙うはホームのみ。
そして体と体がぶつかり合う。もらった、そう思った。
けれどその瞬間私は見てしまった。あの瞳を。ひるんだ。それがあの試合の勝敗を分けた。
ラフプレーぎりぎりの私の走塁は確かに小柄な御幸の体を飛ばしていたものの、奴は最後までボールを手放そうとしなかった。「お前はよくやった」とチームメイトが励ます横で、私は心の中で違う違うと叫んでいた。
違う。あの瞬間、私は御幸のあの強烈な瞳に圧倒されたのだ。
リトル最後の試合、私は御幸に負けた。
のろのろと机から顔を上げた。入学式のあの再会から一週間、今日の席替えで私は窓際の最悪な席を引き当ててしまった。四月のうららかな陽射しとはいえ、寝起きの目には若干じんと刺さる。
「おはよ」
右側から投げ掛けられた声に心臓がビクリと反応し、慌ててそちら側に顔を向けると、いるはずのない人物が頬杖をつきニヤニヤ笑いを浮かべて私の顔を眺めていた。
完全に油断していた。昼休みの野球部のミーティングがこんなに早く終わるなんて。
「もしかしてずっと見てたの?」
「ほんの五分くらい前から?」
「趣味わる......」
私はなんとなくばつが悪くなり、午後の授業の教科書を用意し始めた。隣の席の御幸の机にはいつものようにスコアブックが乗っている。
「お前は座ってても相変わらずでけぇよな」
「悪かったわね、でかくて」
あの頃と変わらない生意気そうな態度で言っているのに、私は昔よりもこの言葉にムカついていた。
座っていても分かる、私達の身長差。あの頃あったおよそ十センチの差が、今となってはそっくり綺麗に逆転していた。要するに私は、あのチビだった御幸に見下ろされているのが気に食わないのだ。
「そっちは昔と違って随分伸びたんじゃない。あんなにチビだったくせに」
「中二ぐらいから急に伸びてきたな。ははっ、まさかお前を見下ろせる日が来るとはな」
「ちょっと身長伸びたくらいで調子乗らないでよ。私だって女子にしては高い方なんだから」
「へーへー」
私の言葉なんてどこ吹く風の御幸は口元だけで笑う。
「......でもまぁ、よかったんじゃない? キャッチャーだったら体格いいに越したことはないし」
「まぁな」
今度は目元までちゃんと笑顔になっていた。
そうだ、いつだって御幸は野球の事になると真剣で妥協を許さない。体格が変化した今でもその変わらない態度に、私は心の何処かで安心していた。
その時御幸は、スコアブックをはらりと捲りながらぽつりと言葉を落とした。
「......お前はもう野球やんねーの? うち、ソフト部ならあるみたいだぜ?」
「............」
私はあの最後の試合の後野球を辞めた。中学ではバスケ部に入ったけれど、それは私の長身を見込んで熱烈に勧誘してきた部長に負けただけで、私は正直野球以外なら何でもよかった。中学のソフト部には入らなかった。
「三年もブランクあるし無理だよ」
「そうか? お前だったらすぐ取り戻せると思うけど」
“取り戻せる”
御幸は簡単に言うけれど、現に私と御幸のあの頃の関係でさえもう取り戻せないというのに。でも、私の中の燻っている思いを御幸は敏感に気付いていたようで、私は平静を装いながらも少しだけ焦っていた。本当に昔から食えない奴だ。
「もう辞めたから」
「勿体ねぇ......。いいバッターだったのに」
御幸はぼそりと呟くように言った。
その日の放課後、私は今までずっと目を背けてきた野球部のグラウンドへ向かった。乾いた空気と土の匂いが鼻腔をくすぐり、どうにもらない思いに心が支配される。視線の先には、逞しくなった御幸がホームにどっしりと構えていた。格好つけのつもりなのか、一丁前にサングラスなんかかけている。
あの頃の奴の小柄な体躯に、リードする時のあの大人っぽい表情はどこか不自然に映った。けれど身体が成長した今は、それが完成形であったかのようにごく自然に馴染んでいた。奴の身体が、やっと精神に追いついたのだ。
プレイをする御幸は、明日世界が滅びると言われても平然と野球をしているだろうと思わせる程のひたむきさと愚直さがあった。
胸が震える。あの頃の興奮が蘇る。
あの場所に、追いつきたい。
*
私の行動は早い。それから三日経った放課後、私は奴に宣戦布告をするため寮のそばで待っていた。強い風の音を聞きながら、なびいて広がる髪を黒のヘアクリップで無造作に纏め、奴は一体何と言うだろうかとぼんやり考えていた。
暫くして、練習着に着替え終えた御幸が寮から出てきた。私の存在を認めた御幸は、興味津々な瞳でこちらを品定めするように見やる。
「へぇ。みょうじが待ち伏せなんて、俺愛されてんな」
「言ってろメガネ」
戯けたようにニィっと笑う御幸を制し、私は昔みたいに御幸の帽子を奪ってやろうと手を伸ばした。けれどその時、トンと互いの腕がぶつかった。今は御幸の方が背が高いので、その分私の奪うスピードが鈍くなり、彼の腕に阻まれてしまった。しかもあろうことか御幸は私の手首をその大きな手で掴んだ。
「何すんの?」
「防御」
「『防御』って小学生じゃあるまいし」
私はその手を解こうと力を込めるが全く緩まる気配がない。
「じゃ、バリアーで」
「それも小学生!」
リトルの頃のたわいもないやり取りだった。けれど不意をつかれて油断したのが悪かった。御幸は更に反対側の手を、私の頭へと伸ばした。次の瞬間、私の髪がぶわっと一気に広がって後ろからの風に煽られて乱暴になびく。御幸の手には私の黒のヘアクリップが握られていた。
「ちょっと! 何すんの」
「ははっ、昔のお返し」
「そんなのもう時効でしょ」
「それはお前が決めた事だろ」
御幸はどこか面白そうに私のヘアクリップを手の中で弄んでいる。
「小学生の時の事、今更蒸し返すつもり?」
「でも意外にショックだったんだぜ? 女にあんなカンタンに帽子奪われて」
肩をすくめて私の顔を見た。
「何よ」
「......髪、伸びたな」
「............」
「昔は男子にしか見えなかったのに」
「うるさい」
自分の過去をほじくり返されてひどくきまりが悪い。けれど、そのあと御幸はヘアクリップを弄るのをやめ、すっと目を細めた。
「......でも今は、女にしか見えねぇな」
心臓の音がトクリトクリと響く。
女にしか見えないからといって、女として見られている事と同義だと考える程、私もおめでたくはない。
「......私だって色々変わったんだから」
「背も更に伸びたしな?」
「黙れ!」
御幸はどこか昔を思い出すようにグラウンドへ目を向けた。その視線の先には、既に集まり始めた部員達が準備を始めている。
「俺さぁ、最後の試合のあと結構微妙な心境だった」
「なんで? 勝ったのはそっちじゃん」
御幸はその時、ふっと表情を止めた。その顔から、私は何かが起きる気配を察知する。
「好きな子打ち負かして」
御幸から発せられた言葉が、私の中に静かに鳴り響く。その反響はゆっくりと、でも確実に脳へと届いてじぃんじぃんと震わせる。あの御幸が私を。信じられない。けれど、そうだ。
ーー私も確かにあの瞳が、彼が好きだった。
ただ、空白の三年間はやはり大きくて、きっと御幸も私の知らない経験を沢山積んだのだろう。もう時間が経ちすぎていた。御幸の気持ちが既に過去形である事は私にも分かった。今も好きであるならば、わざわざこんな事は言わない。何もかもがもう、遅い。
御幸が私に向かってヘアクリップを投げ返した。それは緩い弧を描きながら特に意識せずとも私の手に収まり、私はそれにぼぅっと視線を落としていた。御幸は投げた方の手を暫く眺めたあと、ぴんと張り詰めたような瞳で私を見据えた。
「お前あん時、ビビったろ」
「え......」
今度は彼の放った言葉が、どこか惚けていた私の頭をガツンと叩いた。“あの時”なんて問いたださなくても分かる。御幸はあの瞬間ちゃんと気付いていたのだ。ああ、やはりこいつはそういう奴だった。私は自分の中の内なる情熱が、ふつふつと湧き上がってくるのを全身で感じていた。
「......なんだよ?」
私が急に下を向いたので御幸が不審に思ったのだろう。けれど油断大敵だ。
「チビ!」
そう言って私は、防御されないように素早い動きで御幸の頭から帽子を奪い取った。少し高い位置で苦労したけれど、不意打ちなら私だって負けない。
「てめっ」
「まだまだ私だって負けないんだから」
「はっ、お前は相変わらずだな」
御幸はニヤリとした面持ちで、頭の後ろで両手を組んで空を見上げた。その表情がどこか嬉しそうに見えたのは私の気のせいじゃないだろう。
「なぁ、やっぱソフトやんねーの?」
「さっき入部届け出してきた」
「......へぇ」
御幸は昔と変わらないあの生意気そうな瞳に好戦的な色を浮かべる。
あの頃の私達の関係はとうに終わってしまったけれど、私はこれから再び奴を振り向かせるための三年間を手に入れた。やってやる。なんせ私は、あの御幸にいいバッターと言わしめた女だ。このチャンスだってきっと、ものに出来るはず。
いつだって彼の根源にあるのは野球への飽くなき情熱だった。私たちの間の目線の差は、もう縮まることはないけれど、心の距離を埋めるために走り出した私の気持ちを止めることは誰にもできないはずだ。
目の前の御幸が笑った。今も色褪せる事のない、あの瞳で。
「絶対に追い抜いてみせるから」